「常総学院の木内監督現場復帰」
今年の夏の甲子園大会、茨城代表の常総学院高校は残念ながら緒戦で敗退してしまった。この敗退後、持丸修一監督の退任が発表されるとともに、噂されていた木内幸男氏の監督復帰が明らかにされた。
木内監督は私の母校でもある土浦一高出身で、母校の野球部監督後、取手ニ高に移ってから1977年の夏に甲子園に初出場を果たし、「のびのび野球」のキャッチフレーズで、1984年夏の甲子園では、あの桑田真澄、清原和博のいるPL学園と決勝戦で対戦し、優勝候補のPL学園を破って茨城県勢としては初めての全国制覇を達成している。
木内監督は、この優勝後に私立の常総学院に移った。県立高校の野球部監督時代は生活を含めてなかなか大変だったようだが、私立の常総に移ったことで監督業にしっかり専念できる上、選手層にも厚みが加わり、さらに設備等練習環境も大きくかわったとみられる。
「木内マジック」とも呼ばれた采配には、さらに磨きがかかり、常総学院は、木内氏の監督就任後2年目で甲子園初出場を果たした。1987年夏には今度はPL学園に決勝で敗れはしたものの準優勝、1994年春にも準優勝と、今度は全国優勝にあと一歩が届かなかった。しかし、2001年春の大会で念願の全国制覇を成し遂げた。
そして、2003年夏の大会、72歳になった木内監督は、この夏の甲子園を最後に監督を勇退することを決めていた。木内監督の最後の意気込みが選手にも通じたのか、はたまた木内マジックが見事に功を奏したのか、この大会決勝では、東北高校の好投手、現在も仕事では活躍しているもののプライベートではお騒がせの、あのダルビッシュを打ち崩して、木内監督自身2度目の夏の甲子園制覇を成し遂げたのである。
このときの監督引退にはご自身の健康上の理由も大きかったとみられるが、その後、2005年には体調も回復し常総学院の総監督として指導を再開していた。今回の夏の大会での常総学院の成績に関わらず、木内監督の現場復帰はある程度、事前に予定されていたものともみられる。先日の今年の夏の甲子園の緒戦も、娘が応援をしに行っていたこともあって、仕事中ながらもちらちらと見ていたが、監督の采配如何では勝てた試合ではなかったかと思う。76 歳という高齢ながらも、甲子園40勝という歴代3位の記録を持った木内監督の現場復帰は、ちょっと期待したい。
木内監督の甲子園での成績は、春の大会出場が7回で13勝6敗、このうち優勝1回、準優勝1回。夏の大会の出場13回で27勝11敗、優勝が2回、準優勝1回。甲子園における通算成績は40勝17敗。この甲子園での40勝は監督として歴代3位の記録となる。