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「米FRBの歴史」


 意外にも米国に中央銀行制度が設立されたのは、日銀の設立よりもあとの1913年になってからである。1913年に連邦準備法が成立し、民間銀行の預金準備や紙幣の発券などを行う12地区の連邦準備銀行と、これを監督する連邦準備委員会がワシントンに設立された。

 それまで米国では2度にわたって中央銀行を設立しようとしたのだが、2度とも失敗に終わっていた。最初に1791年に紙幣の発行や通商規制などの権限を有した「第一合衆国銀行」が設立された。しかし、すでに州立銀行を有していた州政府の反発などよって解散。1816年には「第二合衆国銀行」が20%の政府出資によって設立し、特に政府の銀行として設立したが、これも州政府の反対などによって解散してしまったのである。

 米国は連邦制度を採用し、さらに東部と西部、北部と南部といった地域的な対立などがあったことで、中央銀行の設立には大きな抵抗があった。しかし、19世紀から20世紀にかけて幾度も恐慌が発生し、銀行の倒産や企業の倒産などにより深刻な不況が生じた。このため金融システムの安定化が求められ、中央銀行の設立の機運が高まったのである。

 連銀の中で最も規模が大きいニューヨーク連銀が中央銀行としての役割を果たすべきとの考え方もあった。しかし、地方を主体に中央銀行の設立にはまだ反対意見も多かったことから、全米の12地区に地区連邦準備銀行を設立し、それぞれの地区で銀行券である連邦準備券が発行され、各行ごとに公定歩合が設定されることとなったのである。

 恐慌による不況を回避すべき設立された米国の中央銀行だが、設立後に大恐慌を迎えてしまうこととなる。これを受けて地方分権型ではなく中央集権的な金融政策の運営が求められた。

 1933年に連邦準備の機構は改革され、理事会の権限が強化された。金融政策を決定するために連邦公開市場委員会(FOMC)が設けられ、ここでは理事会メンバー7名と地区連銀総裁6名が投票権を持つこととなった。つまりワシントンの理事会メンバーだけで過半数の票が取れることで、理事会の意向が反映されやすくなったのである。1935年の銀行法制定の際に連邦準備委員会は、現在の連邦準備制度理事会と名称が改められた。
by nihonkokusai | 2007-04-16 11:07 | 日銀
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