国債バブルの崩壊事例
1986年11月に国債の指標銘柄になったのが、10年第89回債(以下89回債)であった。89回債の市中向け発行量は2兆7075億円と当時としてはかなり大型の指標銘柄であった。現在の10年債の指標銘柄は直近入札されたものとなるが、当時の指標銘柄は10年債のなかで発行量が比較的多く売買高の最も多い国債のことを指していた。
1987年4月2日、89回債の利回りが指標銘柄として初めて4%を割り込んだ。これは130円台まで円高が進行したことにともない日銀が短期金利を低めに誘導したためであった。同月30日には3%も割り込み、債券市場はいわゆるディーリング相場を迎えた。証券会社や都銀などが積極的に自己売買(ディーリング)を繰り返した結果、4月の公社債の店頭売買高は1000兆円を超えたのである。当時、私も債券ディーラーの一人であった。
5月14日に89回債は10年債でありながら、当時の政策金利であった公定歩合の2.5%に接近する。日本相互証券の端末には89回債の売りが、2.555%に約3000億円、2.550%には約2000億円もまとまって並んでいた。それが一気に買い上げられたのである。これを全部買ったのが「公定歩合が高すぎる」とコメントを出した大手証券会社のチーフディーラーを中心とした野村軍団といわれている。ここまでの債券バブルを作ったのは、野村軍団と呼ばれた銀行や証券会社などを巻き込んだ勢力であった。結局、ここで債券バブルは終焉する。この2.550%が当時の10年債の最低利回りとして記録されることになった。
債券バブルの崩壊で、金融機関のみならず、事業法人でも大きな損失が発生した。1987年9月2日、タテホ化学工業が債券先物で286億円もの損失を出したことが明らかになった。このニュースで債券相場は暴落(長期金利は急上昇)した。いわゆるタテホショックである。9月3日から5日までの3日間で、89回債は1%あまりも上昇した。債券先物は、9月2日に引け値が104円10銭だったが、5日の引け値は100円30銭となっていた。
今回、10年債利回りはさらに低下し、0.250%も割り込んできた。スイスのように10年債利回りがマイナスもありうるとの声も出てきたが、今回の債券バブルもいずれ終演するはずである。それがどのようなきっかけで、どの程度の下落となるのか予測は難しいが、結構大きな調整が起きてもおかしくはない。そのときのため、このような過去のバブル崩壊の事例を参考にしておく必要もあるのではなかろうか。
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