人気ブログランキング | 話題のタグを見る

牛さん熊さんブログ

bullbear.exblog.jp ブログトップ

牛熊ゼミナール金融の歴史第14回 渡来銭

 平安時代の中期に皇朝十二銭は鋳造が取りやめとなり、それまでの貨幣は粗悪で使われなくなったことで貨幣は交換手段として利用されなくなりました。その後、価値基準として使われたのが米や絹でした。しかし、平安時代の末期から農業生産力が向上し、商品流通の拡大などを背景として貨幣に対する需要が高まりました。また、中国との貿易などにより大量の銅銭が輸入されるようになり、「渡来銭」と呼ばれた銅銭が貨幣として使われるようになったのです。

 中国からの銅銭の購入に使われたのは奥州などで産出された「金」でした。当時の日本は東アジア地域有数の金の産出国であり、大量の金が中国向けに輸出されており、それがマルコ・ポーロの「東方見聞録」における 黄金の国「ジパング」伝説に繋がったのです。渡来銭はその後、室町時代中期あたりまで国内に流入し、江戸時代前期まで国内貨幣として広く流通することになります。

 平清盛は南宋との貿易で大量の銅銭を輸入し、朝廷に働きかけて銅銭の流通の許しを得て渡来銭を決済手段とし、これにより絶大な経済力と権力を手中にしました。大量の銭が流通することにより貨幣経済も急速に進んだのです。

 平家が壇ノ浦で滅亡し、源頼朝が開いた鎌倉幕府は中国からの銭の輸入を行いませんでした。その後、一時的に銅銭の流通を認めたものの、貨幣経済が混乱するとの理由から、再び銅銭の流通を否定しました。しかし、貨幣経済の進展により、1226年に鎌倉幕府も渡来銭の利用を公式に認めるようになったのです。国内での貨幣の鋳造が行われなかったのは、当時の政府には地方で産出される銅から貨幣を生産するほどの力が存在していなかったことも要因です。

 輸入された大量の渡来銭を基礎に、銅銭中心の経済となっていた当時の日本で、ただ一度だけ紙幣の発行の動きがありました。それは後醍醐天皇による建武の新政の中で計画されたものでした。後醍醐天皇は建武元年の1234年に、乾坤通宝という新貨を「銅楮並び」行わせようとしました。この「楮」とは紙のことで、乾坤通宝は銅銭と紙幣の二種類での発行が計画されたのです。


*** 「牛さん熊さんの本日の債券」メルマガ配信のお知らせ ***

 「牛さん熊さんの本日の債券」メルマガ、通称、牛熊メルマガでは毎営業日の朝と引け後に、その日の債券市場の予想と市場の動向を会話形式でわかりやすく解説しています。10年以上も続くコンテンツで、金融市場動向が、さっと読んでわかるとの評判をいただいております。昼にはコラムも1本配信しています。毎営業日3本届いて、価格は税込で月額1050円です。登録申込当月分の1か月は無料でお読み頂けます。ご登録はこちらからお願いいたします。
http://www.mag2.com/m/0001185491.html



by nihonkokusai | 2011-10-18 18:20
line

「債券ディーリングルーム」ブログ版


by nihonkokusai
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31