「日銀の国債引受を禁じた財政法」
この積極財政の仕組みは、成功するかに見えたのですが、軍部予算の急膨張によってバランスを失いました。すでにインフレの兆候も出てきたこともあり、1936年の予算編成で高橋蔵相は公債漸減方針を強調しました。
しかし、健全財政を堅持しようとする大蔵省と軍部との対立が頂点に達したことにより、軍事費の膨張を抑制しようとした高橋是清は二・二六事件により凶弾に倒れました。
第二次世界大戦による軍事費の膨張により政府の借入金は増大し戦時国債など国債が濫発されました。増税政策も強行されたもの財源は不足したため国債が発行され、これらの国債は公募されずに日銀引受となったのです。このために、日銀の保有国債残高が増加し、日本銀行券の発行高も激増しました。
1945年8月15日に日本はポツダム宣言の受託により敗戦を迎えました。第二次世界大戦後の大きな痛手を蒙った日本経済は、主食の米不足など消費財の欠乏に加え、終戦処理費として巨額の財政支出などが実施されたことでさらに激しいインフレに見舞われました。
1946年2月に政府はインフレの進行に歯止めをかけることを目指し、金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布しました。5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払い出しを認める、いわゆる「新円切り替え」が実施されました。
そして1947年制定された財政法では、「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。」(第四条)として国債の発行を制限するとともに、「すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。」(第5条)として日銀による国債の直接引き受けを禁じたのです。
これは、戦前において日銀による国債引受などを通じ、安易に公債の発行による財政運営を許したことが戦争の遂行・拡大を支える一因となったことを反省するという趣旨に由来するものとされています。