「ステロタイプ」
この「ステレオタイプ」とは、すなわち特定の集団や社会の構成員のあいだで広く受け入れられている固定的で画一的なイメージのこととされる。差別ともされ根拠もないと言われた血液型による性格判断もステレオタイプの典型であろう。江戸時代は士農工商という身分制度がきっちり出来ていたといわれるが、これもステレオタイプに近い。なぜなら士農工商という言葉が作られたのは明治時代になってからである。日本の縄文時代は原始人のような生活をしていたというイメージもつい最近までのステレオタイプである。
リップマンによると、「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る」という。それは「あらゆる物事を類型や一般性としてでなく、新鮮な目で細部まで見ようとすればひじょうに骨が折れる。まして諸事に忙殺されていれば実際問題として論外である」つまり、そのほうが楽であるためである。ステレオタイプは「我々の伝統を守る砦であり、われわれはその防御のかげにあってこそ、自分の占めている地位にあって安泰であるという感じをもち続けることができる」としている。このため、我々は自分たちのステレオタイプに固執してしまいがちなのである。
しかし、時代は移り変わる。まして情報化が進むことで、その流れは加速しつつあると言える。現実世界もいろいろな要因で動いている。そしてその要素にはいろいろな物があり、また要素に対する比重も刻々と変化する。動物の細胞は良く出来ていてどのような環境にも適応できるように適切な遺伝子の組み替えといった事が随時行われているようだが、同様に自分の感覚の中でもそういった組み換えを行わなければならない。
特に市場での価格はいろいろな要素で揺れ動く。要因も多岐にわたりしかもその比重が刻々変化してしまうため、これを計算して求めようとすること自体が困難になる。たとえば為替についても、市場に張り付いて見ていない限り変動要因を的確に説明することは不可能に近い。ドル円についてもその価格を動かしている主要因が、日米の金利差であったり、それぞれの景気や物価動向であったり、経常収支とかであったり、FRB議長の発言であったり、テロとかの地政学的リスクであったりする。金融市場で生き延びるためには、この変動要因とその比重を肌で感じる必要がある。そうでなければ刻々移り変わる価格変動に対応できなくなる。
金融市場はやや極端な例かもしれないが、市場社会となればこの「固定観念」という邪魔者を取り除くように努力する必要がある。常に新鮮な心持ちで望まねばならない。「固定観念」を打破したとき新しい発想も生まれると思う