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カテゴリ:国債( 815 )

「郵貯資金の流出で国債は暴落するのか」

 郵貯が民営化されても国債の暴落は起きないと断言したい。別に日銀がそれを引き受けてくれるからとか言うわけでもなく、そもそも安易に日銀の国債を引き受けを行ったときこそ国債は暴落する。

 2005年度3月末の日銀の資金循環統計を見ていただきたい。ここに郵貯の資産が何で運用されているのかが一目瞭然である。260兆円の郵貯の資産のうち 105兆円と40.4%が財投債を含む国債であるが、それ以上に多いのが118兆円近くある財投融資資金預託金である。これが45.2%を占め、この両者で86%近くとなる。

 郵政民営化によって仮に大量に資金が流出したとすると、その資金を手当てするには国債を売却せざるを得ないことは確かである。もし100兆円あまりの国債が一度に売却されれば確かに市場は混乱を極める。

 しかし、これだけ情報が公開されている世の中にあって、ある程度その動きが事前に予測できる際には、当然事前にいろいろな手立てを打つことができる。長年マーケットに浸かっていた身として言えるのだが、事前に予想されていたイベントで暴騰や暴落を引き起こすことはまずありえない。暴落が引き起こされるのは、あくまで予想外の突発事項によるものである。

 仮に郵貯の国債大量売却が現実化したとしても、この場合も金融当局や日銀などが対応策を話し合い、その売却が円滑になるような手立てを用いることは容易に想像できる。しかも、そもそも100兆円もの資金が流出して、それを何で運用するというのであろうか。これだけ巨額の資金をリスク・安全性を考慮して振り向ける先としては結果として国債しかあり得ない。

 デフレが続くと見てタンス預金にするというのか。現金を保有する保管リスクや保管コストを考えれば、それよりも民間金融機関などの口座に入れておく方が安全であろう。もしくはより安全な個人向け国債を購入したりするはずである。一人当たり1000万円しか(私にとっては1000万円も、だが)郵貯には本来預けられないはずであり(名寄せはしっかりやってほしい)、この金額では民間金融機関に預け入れたとしてもリスクはそれほど大きなものにはならないはずである。

 結果として、郵貯から流出した資金は、かなりの部分が金融機関なり預入限度のない個人向け国債なりにシフトされることは容易に想像できる。結果的には回りまわって資金の多くは国債投資に再度向かう結果となるはずである。その資金のシフトの過程でのリスクもあるが、マーケット参加者が事前にこれを理解しているものであれば、慌てて国債を売るような参加者はいないはずである。というわけで、郵政民営化による資金流出による国債の「暴落」はありえない。
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by nihonkokusai | 2005-08-24 14:08 | 国債 | Comments(0)

「日本版アコードはあるのか」

 米国では1930年代の大不況下に米連邦準備理事会(FRB)は大幅な金融緩和に踏み切った。これを受けて、TBの金利は1938年からの3年間にわたってゼロ%近辺で推移した。この1930年代の不況対策に加え、1941年に第二次世界大戦に参戦したことで、米国の国債発行額は大きく膨らんだ。1945 年の国債残高はGNPの1.2倍に達したのである(2005年度日本における国の債務残高のGDP比は約1.18倍)。そして政府は連銀を通じて国債を買い支える価格支持策(ペッギング・オペレーション)を採ってきた。この結果、1946年に連銀は市場性国債残高の11.5%を保有していたのである(国債のうち日銀の保有比率は2005年3月末現在14.4%)。

 また、カネ余りにより米銀の余剰資金も膨れ上がり、この余剰資金を振り向けたのは国債であった。結果としてFRBは長期金利の跳ね上がりを防ぐことができ、大不況と戦争という危機を乗り切ったこととなる。上記の様子は現在の日本国債を取り巻く環境に、数値を含めてたいへん似ているようにも思われる。

 第二次大戦後、今度はインフレ懸念の台頭により、FRBは国債価格を維持する政策の副作用に直面することになった。インフレリスクを防ぐために、1951年に財務省とFRBは「アコード」を取り交わし、国債価格維持を撤廃したのである。これによりFRBの判断で金融政策が行えるようになり、中央銀行による金融調節が重要性を増すこととなった。財務省は金融政策に依存することなく、債券市場に向き合っての国債管理政策を採用することとなった。

 米国は平時への回帰に少なくとも20年もの長い期間を要したことになる。そして、まもなく同様のことが起きそうなのが現在の日本である。 10月以降にコアCPIはプラスが継続される可能性が出ており、政府と日銀は景気の踊り場からの脱却を明言している。つまり量的緩和解除の三条件が徐々に揃いつつある、

 しかし、財務省は「デフレは依然として継続しており、現状の量的緩和政策を堅持する姿勢に変更がないことを、市場や国民に引き続き示してほしい」と決定会合で要望している。日銀も当然ながら政府や財務省の意向といったものを重視していると思われる。日銀は新日銀法で独立性を保持しているとはいえ、今後の軋轢を防ぐためにも、量的緩和解除に際しては何らかの日本版アコードも必要となろう。どのようなかたちで日銀と財務省がアコードを取り交わすことができるのか。これは来年の大きな注目材料になるものと思われる。
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by nihonkokusai | 2005-08-19 12:53 | 国債 | Comments(0)

「地方自治体の市場化テスト」

 地方も市場化テストの導入に動き始めたようである。東京都足立区は印鑑登録、納税証明書や住民票の発行等区民事務所での窓口業務のほか、地方税の徴収、戸籍事務などを対象に市場化テストの準備を進めている。ちなみに足立区は、行政改革先進自治体として、学校給食等の民間委託をはじめとする先駆的な試みを積極的に進めており20年余で2000名近くの職員削減を達成するという実績を残している。また、官民共同による職業紹介事業により1年間の就職者が2000人を超えたといった実績もあるようである。

 大阪府は全国の自治体で初めて「市場化テストガイドライン(指針)」を発表している。府民向けの広報、統計整備などの調査業務が候補にのぼっているという。大阪府のガイドラインの特徴は、国に準じた「官民競争入札型」とは別に、独自の「提案アウトソーシング型」を設けたことである。これは、現行の行政コストやサービス水準を上回る効果が期待される事業について、知事が民間事業者から提案を公募し、経営判断や創意工夫を含めて包括的に民間委託する手法である。

 埼玉県の志木市も行政改革に積極的に取り組んできているようである。前市長の穂坂市長は部長級の職員が市の事業すべてについて廃止、縮減、事業の見直し、継続の4つに仕分けし、ほぼ半分の430事業について廃止を含む何らかの見直しを行った。たとえば市長車に運転手をつけず、手の空いている職員がハンドルを握る。職員の執務スペースの清掃は業者に任せず自分でやるといったことで費用削減に努めたようである。また、公共事業を市民に選択するという「公共事業市民選択権保有条例」なども制定した。そして今後は上水道の管理・運営など専門性の高い業務などに市場化テストの手法を取り入れるようである。
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by nihonkokusai | 2005-08-16 12:07 | 国債 | Comments(0)

「流れはリニューアル自民党か」

 衆院が解散し、9月11日が投票日と決まった。各マスコミの論調は予想以上に小泉自民党への期待を強めているように思われる。流れは小泉新自民党にある。金融市場関係者においても小泉改革支持派が多いようである。これはたしかに市場関係者にとって市場化の必要性は身を持って感じているためであろう。

 国民の声は改革を望んでいるものと思われる。仮に今回の選挙で小泉自民党が勝った場合、小泉さんの後継者がもし改革派でなければ、国民が納得しないであろう。そして、すでに人事などでも透明性を強めた結果、それを元の密室人事などに戻すことなども誰も納得できないはずである。自民党が今回の選挙で勝ったならば、政権維持のためには改革への意欲をさらに高めてもらわなければいけない。

 ただし数の上では、小泉自民党もなかなか厳しい状況に変わりはない。民主党が政権を握る可能性もありうる。しかし、国民の過半数以上が郵政民営化を支持している以上、内容はともあれ、それに民主党が反対していたことは不利に働くものとも見られる。そして民主党にももっとしっかりと現実的な改革路線を主張してほしいものである。
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by nihonkokusai | 2005-08-09 13:19 | 国債 | Comments(2)

「郵政民営化関連法案の参院本会議で採決」

 本日の午後1時に郵政民営化関連法案が参院本会議で採決される。自民党内で反対する議員が19人以上になると見られており、否決される可能性が高い。知り合いの方が郵政民営化準備室で大変なご苦労をされていたこともあり、個人的には通してほしいとの気持ちも強い。

 しかし、結果とすれば、あらためて国民の声を聴くということは必要なのかもしれないとも思う。郵政民営化を主体とする小泉構造改革は、反対派が自民党内にいることで本来の目的からやや乖離しつつある。構造改革自体が妥協を重ねるうちに民営化との流れがすっきりしたものとならなくなっている。そのため選挙を行うことで、小泉政権後も財政構造改革、民営化、市場化、小さな政府といった方向性をさらに強固なものとしてほしい。

 結果として、国民がどのような答えを出すのかは読みづらい。選挙となれば既得権益を持っている人たちが結集してがんばってしまう。それを突き崩すためには、浮動層と言われている人たちが動かなければならない。民主党が政権を取るとの予想もあるが、郵政民営化についても非常に中途半端な位置にいたことで、強く財政構造改革が打ち出せるとも思えない。今回の選挙で棚ボタ式に政権を取ったとしてもあまり期待はできないのではなかろうかと、私は思う。

 自民党も仮に構造改革に反対する人たちが多く残ってしまうようでは、今後の改革の妨げにもなろう。リニューアルした改革派がしっかり政権を担って、これまでの中途半端な改革ではなく徹底した改革を進めなければならない。日本の巨額債務を見るまでもなく、これには国の存亡すらかかっているといっても決して過言ではないはずである。
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by nihonkokusai | 2005-08-08 09:55 | 国債 | Comments(0)

「村尾信尚さんの特別寄稿」

 「もうひとつの日本を考える会」 でお世話になった関西学院大学教授の村尾信尚さんの特別寄稿が、4日に発行された小泉首相メルマガに掲載されています。
 「官から民への大政奉還」はすぐにも実行していかないと、大げさに聞こえるかもしれませんが国の存亡にも関わってくる可能性があります。「巨額の赤字をつくり、融通の利かない官は、そろそろ退いてもらわなければなりません」。まさに同意です。よろしければぜひお読みください。
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by nihonkokusai | 2005-08-05 12:54 | 国債 | Comments(2)

「公的部門のリストラ」

 福井日銀総裁は会見などを通じて、郵政民営化について「今後の大きな課題である公的部門のリストラの最初の出発点」と位置づけた。これまで行われてきたのは民間部門におけるリストラである。これまで行われていた小泉改革は、無駄な公共投資などの拡大を抑えることであった。これからは公的部門のリストラが大きな課題である。

 福井総裁が総裁に就任当初から積極的な当座預金残高を引き上げた際にも、決して実施しなかったことがある。それは日本国債の日銀による買切りの増額であった。もし買い切り増まで実施してしまえば、日銀は泥沼のように財政問題に組み込まれてしまい、抜けるに抜けられなくなる。総裁が交代してもさらに国債買い切りを増加し続ければ、いずれその額を減額するなりすることは非常に困難になることは明らかである。ある意味、当座預金残高の引き下げは量的緩和解除に向けて一気に引き下げることも可能だが、その際に国債の買い切りを減額することには財務省などが抵抗してくることも確かであろう。

 今後の日本という国を立て直すためには公共部門のリストラが必須であると私も思う。郵政民営化に対してあれだけ反対があるということは、それだけ既得権益に甘え固執したいと人達がいるということでもあろう。そういったところに大きなメスを入れなければ、これだけの国の債務問題など解決は図れない。以前にも指摘したが、財投債という国債がすでに国債残高の大きなシェアを占めていることなど、我々ももう少し認識すべき問題と思われる。

 本格的な公的部門のリストラを実施せずに、安易に増税などしてもらいたくない。しかも取り易いところから取ろうとする姿勢にも問題があり、サラリーマン増税は国の債務問題の根本的な解決手段にはならないし断固反対である。プライマリーバランスを図るためには歳出だけでなく歳入にもメスを入れるという理屈などまだまだ聞きたくない。道路公団の談合がいまだに正々堂々行われていたことなど見ても、歳出を絞れるところまで絞っているなどというのは全く持って疑問である。

 福井総裁の発言のように、公共部門のリストラはこれからスタートである。それにしっかり手をつけなければ、それほど時間をおかずに「日本国債は危ない」ものとなるであろう。
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by nihonkokusai | 2005-07-29 16:41 | 国債 | Comments(2)

「形だけの市場化」

 29日に中間報告が発表される今年度の規制改革の重点項目の内容の柱となる市場化テスト法の骨子案において、対象事業や落札者を決定する権限が第三機関ではなく各省庁が受け持つこととなったそうである。その理由が「行政責任を取れるか」だそうである。

 市場化テストは米国インディアナポリス市で市場化(Marketization)による改革などを取り入れようとしているものと思われる。インディアナポリス市の例では対象事業や落札者を決定する権限は市長とそのスタッフが持っていた。ゴールドスミス前市長が率先して市場化を行っていたからこそ抵抗勢力を廃して効果的な市場化を取り入れることが可能となった。

 市場化はインディアナポリス市でさえ小さな事業からはじめて成功例を重ねることにより、さらに大きな事業に取り入れた。しかし、日本ではいきなり国が始めようとしていることに無理もあるような気もする。

 第三機関では行政責任を取れないかもしれない。しかし、インディアナポリス市の市場化でも抵抗勢力となったのは「職が奪われると危惧する市の職員やこれまでの管理運営が否定されかねない州政府や市の担当者」であった。つまり今回の日本の市場化テストでいえば各省庁そのものが反対・抵抗勢力となりうる。それでは市場化が形骸化されると指摘されても当然でなろう。

 郵政民営化というこれも大いなる市場化テストも反対勢力により本来の民営化の意味合いがだいぶ薄れつつあるようにも思うが、市場化テストそのものも同様のようである。第三機関が行政責任を取れないと言うのならば、対象事業や落札者を決定する権限を第三機関に与えた上で、市場化を推進する内閣府そのものが行政責任を取るようにするなりすべきものではないかと思う。そもそも行政責任というが、今回のアスベルトの件でもしっかりと「行政責任」を取ってくれるのであろうか。

と、いろいろ叫んでみても現在の政治のシステムでは、トップ(首相)がいくらがんばっても市場化を含めてかなり無理がありそう。現在の政治のシステムそのものが変らないと本来の意味での市場化もむずかしそうである。
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by nihonkokusai | 2005-07-25 10:02 | 国債 | Comments(0)

「田中角栄とオイルショック」

 三種の神器に代わって消費の牽引役となったのは、3Cブーム(カラーテレビ、クーラー、カー)であった。この高度成長に伴う税収増から、政府は公債依存度の引き下げに努力したものの、それが可能であったのは、昭和43年(1968年)から昭和45年(1970年)までの間だけであった。国債の発行は、財政面の刺激により景気の浮揚をもたらすとの期待と裏腹に、財政への安易な依存をもたらす危険性も秘めている。そして1968年には国民総生産(GNP)が資本主義国の中で第2位に達したのである。

 昭和45年(1970年)といえば、大阪府吹田市の千里丘陵で3月15日 から 9月13日まで日本で最初の国際博覧会、大阪万博が開かれたが、このときも「東京オリンピック」と同様に、この秋から景気後退局面となる。国家の威信をかけたプロジェクトによる経済への効果や国民の士気を高めるといった効果は当然あったとは思うが、それによるツケも大きいものとなった。いったん昭和46年(1971年)に景気は底入れの兆しが見えたが、この年に。今度は「ニクソンショック」が世界を襲い、当然ながら日本も巻き込まれることとなった。日本の高度成長は東京オリンピックでいったんブレーキがかかり、これによって政府は債務を抱えるようになった。この高度成長は結局、大阪万博というもうひとつの国家的イベントによって幕を閉じる格好となったのである。

 昭和46年(1971年)年8月15日に、当時のニクソン米国大統領は、米国の国際収支の赤字を削減してドルの流出を防ぐ目的により、外国の通貨当局に対してドルと金との交換停止を通告した。これによって、戦後続いてきたドルを基軸通貨とする固定相場制は終了し、1ドル360円の固定相場制は中止され、変動相場制に移行したのである。

 欧州各国は変動相場制の対応に追われるなか、日本だけは輸出企業を守るためとの名目から、円レートを守ることを最優先課題とした。12月のスミソニアン合意により、1ドルは308円に切り下げられたのだが、円の切り上げが不可避となっても、それを最小限に押さえ込もうと必死の対応をしたのである。その結果が、大量の国債発行による内需拡大と極端な金融緩和の実施となった。この後もこれと同じ愚を日本は何度も繰り返した。

 昭和46年には大型補正予算も組まれ、昭和46年度(1971年度)の国債発行額はついに1兆円の大台に達した。昭和47年(1972 年)7月には、田中角栄が総理大臣に就任。田中首相は「工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速道路の建設、情報通信網のネットワークの形成」などを謳いあげ「日本列島改造論」を提唱した。加えて積極的な財政金融政策を提唱。この結果、昭和47年度(1972年度)の国債発行額はさらに増加し1兆9,500億円あまりに膨らんだのである。この年に組まれた当初予算は、伸び率が25%という空前の大型予算であった。また「福祉元年」と言われ、年金や健康保険給付の画期的な拡充も計られた。この財政・金融面における極端な拡張策は、結果として国内の景気の過熱、物価の高騰、土地の価格の上昇を招くことになる。

 昭和48年(1973年)10月、第4次中東戦争が始まった。アラブ諸国は禁輸措置を実施し、石油輸出国機構(OPEC)は原油価格の引き上げを実施。石油価格は一気に4倍となり卸売物価が前年比30%、消費者物価指数は前年比25%も上昇したのである。給油所は相次いで休業、買い占めや売り惜しみ、便乗値上げなどが相次いだ。トイレットペーパーや洗剤、砂糖などが不足するとの思惑から、買占めが各地で引き起こされた。しかし、この物価上昇は海外要因だけによるものではなかった。すでに日本の高度成長は限界に達し、国内需給が逼迫しており、それに石油価格の高騰がまさに火をつけてしまったといえる。

 この異常事態に対して財政金融両面においてきわめて強力な総需要抑制策が実施された公定歩合は昭和48年(1973年)中に、4.25% から9.00%に引き上げられた。昭和48年度(1973年度)の国債発行額は2兆円台を突破した。昭和49年度(1974年度)も総需要抑制策は実施され、企業の設備投資などが抑制された。この結果、需給ギャップ(経済の供給の伸び率と現実の需要の伸び率との乖離のことを)は拡大し、戦後初のマイナス成長となった。いわゆるスタグフレーション(景気停滞と物価上昇が同時に進行すること)に陥ったのである。戦後続いていた高度経済成長がここに終焉を迎えた。これにより税収は大幅に減少し、国債は増発され続けた。

 1975年11月、フランスのジスカールデスタン大統領の発案により、第一次オイルショック以降の経済の回復を主たる議題とした第一回の先進国首脳会議(サミット)がフランスで開催された。
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by nihonkokusai | 2005-07-22 12:59 | 国債 | Comments(0)

「昭和30年代の高度経済成長」

 昭和30年(1955年)あたりから日本経済は高度経済成長の波に乗り、好景気が昭和39年(1964年)まで続くことになる。

 昭和30年(1955年)から昭和32年(1957年)にかけて、日本は「神武景気」と呼ばれた大型景気を迎えた。1950年から1953年における朝鮮戦争による所謂、朝鮮特需によって、もたらされた。神武景気の名前の由来は、神武天皇が即位して以来最大の好景気だからだそうである。

 昭和31年の経済白書には「もはや戦後ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」と表記されているが、それだけ戦後の日本経済が立ち直ってきたという証でもあった。電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビ受信機の「三種の神器」が登場し、こういった家電製品の普及は個人消費に大きく貢献したと言われる。

 「なべ底景気」と言われる景気減速を経て、昭和34年(1959年)あたりから再び景気が上向き、のちに「岩戸景気」と呼ばれた神武景気を上回る好景気が続いた。「天照大神が天の岩戸に隠れて以来の好景気」から「岩戸景気」と名づけられたそうだが、このころ私は生まれている。私が生まれてまもなく写された写真には、白黒テレビが写っていたが、皇太子のご成婚によってテレビ受像機が急速に普及したのもこの頃だそうである。ちなみにテレビ放送開始は昭和28年である。「投資が投資を呼ぶ」とも言われ設備投資が景気を引っ張り上げていった。鉄鋼や造船、自動車、電気などの工場や石油コンビナートが京浜工業地帯などに立ち並んでいった。この「岩戸景気」は42か月にも及ぶ持続的な景気となったのである。

 昭和35年(1960年)に実施された池田内閣による「所得倍増」をスローガンとした高度経済成長政策も日本経済の追い風になった。まじめに働けば給料は確実に増えてゆき徐々に出世も可能となった。夢のマイホームも次第に夢ではなくなり、主婦も家電製品の浸透とともに重労働となっていた家事からだいぶ開放されるようになっていた。まずしいなりに夢を抱ける時代であった。まじめに働けば親の世代よりも裕福になれると信じ、日本人は一生懸命働いたのである。
 国民は確かに幸せになったと思う。当時の日本の経済システムが有効に機能し、それは政治としてもある面での成功を果たしたともいえる。しかし、所得倍増計画を言い出した池田さん自身が、晩年「何か国家としての忘れ物をしてきてしまった」と側近に漏らしているといわれるように、そのつけはあとの時代に露見してくる。

 昭和38年(1963年)には「東京オリンピック」を控えて公共投資が活発化した。夢の超特急といわれた東海道新幹線や首都高速道路、東京モノレール、そして黒四ダムといった大型の公共工事が次々に行われてきたのである。
 しかし、東京オリンピックが始まった昭和39年(1964年)10月ごろから日本の景気は急速に冷え込みはじめ後退局面に入ったといえる。すでに昭和36年(1961年)ごろから中小企業の倒産が増加しており、株価も下落していた。企業収益も減りつつあったのだが、それが顕在化したのが昭和39年(1964年)の後半であった。

 昭和40年(1965年)に入ると、サンウエーブや山陽特殊製鋼など大手企業の破綻が相次いだ。株価も急落し続け、信用不安も広がりをみせていた。信用不安に対しては、山一證券への日銀法25条にもとづく無担保・無制限の特別融資(日銀特融)が実行されたことでなんとか収まったのだが、株価の下落はさらに続いた。これが「40年不況」と呼ばれ、金融緩和も効果がなく、財政面からの公共事業が促進されることになり、戦後初めてとなる「国債発行」が準備されることとなったのである。

 昭和40年(1965年)7月、佐藤栄作首相、福田赳夫蔵相のもと、政府は財政投融資の増額と、特例国債(赤字国債)発行を内容とする補正予算を決定した。税収不足を補うために発行されたこの時の特例国債(赤字国債)の発行額は2,000億円。同時に、昭和41年度(1966年度)の予算編成における「建設国債」の発行と大型減税も決定したのである。
 昭和41年(1966年)1月に、戦後初めての赤字国債(特例国債)が、期間7年、利率6.5%、価格98円60銭で発行された。そして、3月には大蔵省資金運用部による国債の引受も開始された。これにより、歳入を全額、税収や日本銀行納付金などの税外収入で賄えた均衡予算主義は崩れさった。この年以降、財政に国債が組み入れられようになり、「財政新時代」の幕開けとも言われたのである。

 昭和41年度(1966年度)に発行された建設国債は、6,656億円。昭和42年度(1967年度)は7,094億円。そして昭和43年(1968年)は少し減って4,621億円の国債が発行されている。しかし、すでに景気は回復し、経済成長率は3年連続で10%を上回っていた。いわゆる「いざなぎ景気」である。景気が回復基調となっても国の借金は増え続けていくのである。明らかに何かが変ってきたと言わざるを得ない。私は戦後の経済成長の区切りとして戦後初めての国債発行時ととらえている。
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by nihonkokusai | 2005-07-21 10:45 | 国債 | Comments(0)
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「債券ディーリングルーム」ブログ版


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