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カテゴリ:金融の歴史( 60 )

牛熊ゼミナール金融の歴史第9回 証券取引所の設立

 金融・貿易の一大拠点として繁栄したブリュージュに変わり、アントワープがヨーロッパの商業拠点となり、喜望峰周りのインド航路の発見によりその繁栄は支えられました。このアントワープ(アントウェルペン)に1531年、現在のようなかたちの証券取引所が歴史上初めて設立されたのです。

 ブリュージュにおける手形の取引所をモデルにしてつくられたアントウェルペン取引所では手形や商品などの取引が行なわれていました。ここでは現金による決済以外にすでに商品のオプション取引に対する契約も扱っていました。このオプションは現在のデリバティブ取引と同様に、ヘッジとともに投機としても使われました。さらに債券を取引する第二市場も現れたのです。

 アントウェルペン取引所の銘板には「国籍と言語の如何を問わず、すべての商人に役立てるために」とあるそうで、交易の自由が保証され、イギリスやポルトガルなどヨーロッパ各国が商館や駐在員を配置し、資金調達などを行っていました。またアントウェルペンでは「アントウェルペン慣習法集成」という商法も制定され、この商法がオランダの東インド会社の設立に大きな影響を与えたとも言われています。そこでは船舶の売買に加え海上保険といった取引も盛んに行われ、ヨーロッパ最大の商業・金融の中心地となっていたのです。

 アントウェルペン取引所の取引で一躍有名になった人物がいます。それが「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉でも有名なトーマス・グレシャムです。グレシャムはイギリス王室から海外負債管理の任務を託され、アントウェルペンに派遣されました。アントウェルペン取引所において商才というか相場師の才能を発揮し、スペイン金の投機で成功し、イギリスの海外負債の大部分を清算した結果、1559年にはエリザベス1世からナイトの称号を与えられました。アントウェルペン取引所の運営に目をつけたグレシャム卿は、ロンドンに戻ってから同様の取引所を設立し、それが王立取引所と改称され、イギリスにおける取引所の始まりになるのです。

 参考までに、証券取引所とは主に株式や債券など証券の売買取引を行うための場所であり、資本主義経済における中心的な役割を果たしています。国や企業などの資金調達と投資家による資本運用の双方が効率的に行われるようにするため、株式や債券の売買を取引所に集中させて行います。証券取引所は、投資家や証券会社自身の株式などの売買注文を市場に集中させることにより、大量の取引を可能にさせ、市場の流動性を高めるとともに、公正な価格形成を図るということが可能となっているのです。投資家は証券取引所で自らが直接取引を行うことはできません。会員である証券会社を通じて取引を行わなければならないのです。証券取引所における取引においては、大量の売買注文を公正かつ円滑に執行するために、取引時間、値段を指定する方法、取引単位、決済方法などについての細かな規定が定められています。また、売買は基本的に競争売買によって行われています。



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by nihonkokusai | 2011-10-11 14:55 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第8回 大航海時代

 15世紀になるとオスマン朝トルコは、イタリア諸都市の海軍に勝利して地中海の制海権を握り、貿易により栄華を誇っていたイタリア商人の活動は次第に抑制されてきました。ポルトガルとスペインの両国は国王を中心とした中央集権制度を設立させており、強力な国家権力のもと、アジアから伝わった羅針盤などを使っての航海技術や造船技術の発展も加わり、新たな交易ルートの開拓が行われようになったのです。

 ポルトガルとスペイン両国は競い合って海に乗り出し、1488年ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスは船団を率いて困難の末にアフリカ南端の喜望峰に錨を下ろしました。1492年にジェノバ商人のクリストファー・コロンブスはアジアへの西航路探索の過程でアメリカ大陸を発見しました。そして、1498年にポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を回ってインドに達しました。そして、1522年にスペイン王の命を受けたポルトガル人のマゼランが世界一周を達成したのです。

 初期の航海は嵐による難破や、マゼランが航海途中で受けたような敵からの襲撃、さらに疫病などにより、乗組員の生還率は2割にも満たないともいわれ大変危険なものでした。しかし、遠征が成功すれば、新たな貿易路が開拓されることで交易に伴う莫大な利益が転がり込むとともに新たな領土も手にすることができたのです。航海に成功した冒険者はのちの世界史に残るほどの名声とともに、莫大な富が転がり込んだのです。

 ちなみに、すでに日本語化しているリスク(risk)の語源は、俗ラテン語の「risicare」に遡れるとされ、それは「絶壁の間を縫って航行する」ことを意味しています。リスクには危険に身をさらすという意味も含まれながらも、試してみることや冒険してみることと言った意味が含まれ、そこには冒険の愉しみという気持ちも込められています。投資の際にも使われるリスクとは、失敗の危険性はあるものの成功を目指して期待に胸膨らませながら果敢に試みることを意味しているのです。

 アメリカ大陸に進出したスペインは、アステカ・インカ両帝国を征服してその地を領有しました。1545年に発見されたボリビアのポトシ銀山で大量の銀が採掘され、ここで採掘された大量の銀はスペインに運び出されました。イギリスの女王エリザベス一世は、フランシス=ドレークやホーキンズらの率いる海賊に、これら銀船隊を襲わせてその富を奪った話は有名です。

 安価な大量の銀・金がヨーロッパに流入したために貨幣価値が大幅に下落し、物価を高騰させました。これがいわゆる「価格革命」です。アメリカ大陸からからヨーロッパへ流れた銀は、ヨーロッパがアジアから購入する香辛料などへの支払いに当てられました。さらにアメリカ大陸の需要などから、ヨーロッパのさまざまな産業が発展し、アジアを含めて新たな世界商業のネットワークが構築され、これによりヨーロッパの商工業はそれ以降、活況を呈することとなるのです。イギリス艦隊とスペインの無敵艦隊が戦った1588年のアルマダの海戦の敗北などによってスペインは次第に衰退し、その後、イギリスやオランダが制海権を得て台頭してくることになります。

 16世紀後半から17世紀前半にかけて日本も世界で有数の銀産出国でした。黄金の国ジパングの金銀の獲得を目指して、中国やポルトガル、オランダが日本との貿易に乗り出してきたのです。戦国時代になると、大規模な築城が行なわれるなど土木技術が発達し、それが鉱山開発に応用され、大量の採掘が可能となる坑道を掘って鉱石を採取するようになりました。さらに、銀の精錬技術である灰吹法が中国や朝鮮から伝えられ、この新技術により効率的に銀が抽出されるようになったのです。

 2007年に世界遺産に登録された現在の島根県にある石見銀山を中心に大量の銀が国内で採掘され、17世紀当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一に相当しました。ポルトガルは日本の銀を介在してのアジアでの三角貿易を行いました。中国で購入した生糸などを日本に持ち込み、それを銀と交換し、その銀をもとに中国産の絹織物や陶磁器、東南アジアの香辛料を買いつけました。それらを本国に持ち込んで利益を得ていたのです。金銀が交換手段として受け入れられたのは、それらが中国との交易に利用できたからです。

 当時の明では、マルコ・ポーロが見たという元で発行されていた紙幣(交鈔)にならって宝鈔と言う紙幣を発行していました。これは完全な不換紙幣であったことに加え、紙幣価値を保つための政策は何も行われておらず、このため価値は下がり続け、それに代わりこの時代に日本や南米から大量に流入された銀が通貨として使われるようになりました。

 これに対して何度か使用禁止令が出されたものの効果は無く、課税対象を土地に移し銀による納税とした「一条鞭法」の採用によって事実上、銀が明の通貨となり銀への需要が高まっていたのです。







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by nihonkokusai | 2011-10-08 15:19 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第7回 メディチ家

 世界最初の銀行が設立され、政府による本格的な政府による債務の調達が開始され、現在の金融システムに近いものが構築された金融取引が活発化した12世紀のベネチア、ジェノバなど北イタリア諸都市で、早くも金融危機が起こっていました。

 14世紀初頭になりトスカーナ地方で破産が多発し、当初の破産は限定的な地域に止まったものの、まもなくそれは広範囲な金融危機となっていったのです。フィレンツェ地方で銀行業務を営んでいたバルディ、ベルッツィなどの商会は、ヨーロッパ各地に支店を持ち、王侯や貴族に対して融資をしており、特にイギリス王との関係が深く、エドワード三世に対して巨額の資金を貸し付けていました。

 1339年、のちに英仏百年戦争と呼ばれたフランスとの戦争が勃発し、英国王室と関係の深い両銀行は戦費を引き受けざるを得なくなりました。戦争は莫大な出費を伴い、債務総額は王国の価値に匹敵する、とも言われたのです。さらにバルディ、ベルッツィなどの商会が英国の戦費を賄っていると知ったフランス王は、対抗手段としてフランス全域に有る両銀行の支店を閉鎖させ資産を没収しました。これを受けてバルディ、ベルッツィの両商会は、貸付先の英国に返済を求めたのですが、英国は莫大な債務を支払う能力は無く、その結果として債務不履行は避けられず、銀行業を営んでいた商会は一時支払停止をせざるを得なくなったのです。

 苦境に立たされたバルディ、ベルッツィは倒産し、フィレンツェの経済は大混乱を招いてしまいました。フィレンツェの政治も混乱を極め、一時的に民主自治の制度を放棄するという事態も招いたのです。さらに追い討ちを掛けるようにペストが猛威を振るったのです。

 地中海諸島に広がったペストは1348年にヨーロッパ全域に広がりました。フィレンツェの北で医薬業を営んでいたと思われるメディチ家は、ペストの治療薬により莫大な財を築いたとのではないかとの説もありますが、有力商人となったメディチ家は1397年に自身の銀行を設立し金融業に進出したのです。バルディ、ベルッツィなどの商会がイングランド王などを相手にした貸付で失敗し、倒産したことなどにより、メディチ銀行は大銀行に躍り出ます。

 メディチ銀行はローマやベネチアなどへ支店網を広げ、情報のネットワークを構築し、国際的な信用機構も作り上げました。また、ローマ教皇庁会計院の財務管理者ともなり、教皇庁の金融業務で優位な立場も得たことで、目覚しい発展を遂げることになります。当時の王室や教会などの支配階級にとり、金融のスペシャリストである銀行家はなくてはならない存在となっていたのです。

 ただし、当時のキリスト教は利子を取ることを禁じていました。このため利用されたのが外国為替取引です。利子はアジオと呼ばれた異なる通貨の換算率の中に含まれ、手数料という名目で利子を取っていたのです。

 メディチ家は銀行家として成功を収め、さらに政治にも進出しました。家門の中からローマ法王を二人輩出し、のちにはトスカーナ大公国の君主となりました。また、ルネサンス期の様々な芸術家たちのパトロンとなったことでも知られています。

 メディチ銀行はバルディ、ベルッツィの破綻を教訓に、事業の分権化を図るなど一部地域の破局の連鎖を食い止める策を講じたものの、フランスのイタリア進行によりメディチ家の全財産は没収され、メディチ銀行も倒産という憂き目にあうこととなります。




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by nihonkokusai | 2011-10-07 16:14 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第6回 銀行の誕生

 日本では銀行と訳された英語の「Bank」の起源も、政府による本格的な債務が開始された12世紀の北イタリアにあるとされています。英語の「Bank」の語源は、欧州圏の貨幣供給が増加し交易が活発化する中、当時の世界の貿易・文化の中心地であった北イタリアに生まれた両替商が両替のために使用したイタリア語「BANCO」(長机、記帳台)に由来するとされています。

 ローマ・カトリック教会と連携した北イタリア商人は絹や香辛料貿易を活発に行っていました。十字軍に財政的な支援を行なった見返りに、十字軍の支配下に組み込まれた地中海東部全域における特権を得ていたのです。

 この遠隔地間の交易のための開発されたのが「為替手形」でした。あらたな信用供与手法が構築されたことなどから、12世紀から14世紀にかけての北イタリアに「銀行の起源」があるとの見方があります。

 12世紀のジェノバにはバンゲリウスという言葉が両替商を意味し、この両替商は預金を受け入れ、地元の事業主に貸付を行なっていました。また、13世紀のベネチアでは、バンコ・ディ・スクリッタと呼ばれる直訳すれば「書く銀行」、つまり帳簿上で決済を行なう振替銀行も誕生していました。

 為替手形の開発などによって、銀行業を介在とした財の生産、そして交易によって中世の西欧経済が発達しました。ヨーロッパ各地の物産が交換され、また国内外の負債が決済される場でもあった国際定期市が、交易商人兼銀行家が特に活躍する場となりました。そして、イタリア人は商人から銀行家へと転職し、その代中にはルネサンス期を代表する銀行家・政治家となったメディチ家などがありました。

銀行の起源としては、17世紀のイギリスに求められるとの説もあります。当時の金の細工商であったゴールドスミスは、ロンドンでも一番頑丈な金庫を持つとされました。金を手元に抱え込むリスクを懸念した金所有者は、この金庫を持つゴールドスミスに金を預けるようになったのです。

 ゴールドスミスは金を預かる際に、預り証を金所有者に渡し、この預り証(goldsmith note)が、現代の紙幣の起源との説があります。ゴールドスミスは、この金の預かりをしているうちに、預けられている金が常に一定量を維持していることに気が付き、預けられた金を運用するようになりました。こうして貸し出し運用が開始されたことで、これが銀行の始まりであるとの説があります。


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by nihonkokusai | 2011-10-06 14:49 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第5回 紙幣の誕生

 中国の唐の時代の後期には、茶・塩・絹などの遠距離取引が盛んになるなど商業の発達に伴い銭貨の搬送を回避する手段として「飛銭」と呼ばれた送金手形制度が発生しました。高額商品の売買には銭貨の「開元通宝」などでは量がかさんでしまう上、途中での盗賊などによる盗難の危険もあります。このため、長安や洛陽などの大都市と地方都市や特産品の産地などを結んで、当初は民間の富商と地方の商人との間によって「飛銭」という送金手形制度が開始されたのです。

 これはたいへん便利なものであるとともに、手数料収入に目を付けた節度使(地方の軍司令官)や三司(財政のトップ)などもこれを模倣しました。飛銭を利用する際に使われた証明書(預り証)が、宋代になると交子・会子・交鈔・交引などと呼ばれ、証明書それ自体が現金の代わりとして取引の支払に用いられるようになりました。特に四川地方で発行された「交子」が世界史上初の紙幣とされています。

 紙幣はたいへん便利なものであったことで、その需要が増え、それに目をつけた政府は軍事費に当てるための財源として交子を乱発し、その価値を失ってしまいました。新たな紙幣を発行するものの、やはり信用を落としてしまい、最終的には銅銭が復活することになります。

 しかし、なぜ中国で世界最初の紙幣が誕生したのでしょうか。貨幣の材料となる貴金属などの産出が限られていたこともありますが、宋や元の時代の国家権力が強かったことも要因と指摘されます。それとともに遠隔地との交易など商業の発達がそれを促したものといえます。忘れてならないのは、紙そのものが中国で発明されたものであり、さらに印刷術も発達していたことが、紙幣の発行を可能にしたのです。

 マルコ・ポーロの「東方見聞録」には、元で通貨ではなく紙幣で買い物をする様子を見て驚く場面が登場します。これからも当時のヨーロッパなどでは紙幣が使われていなかったことがわかります。


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by nihonkokusai | 2011-10-05 17:35 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第5回 日本における金利の起源

 日本の歴史の中での金利の起源についてみてみましょう。日本における金利の起源は世界史の中の金利の起源と同様には稲の貸し借りとなる「出挙(すいこ)」だといわれています。 貯蔵した初穂の稲を春に種籾として貸し出して、秋の収穫時に神へのお礼として五把の稲を利息の名目でお返しするというのが「出挙」で、これが日本における金利の起源であり、金融の起源ともいえます。

 中国では古くからこういった利子付き貸借の慣習が存在し、日本でも同様の慣習が行なわれていました。文献などでは、日本書紀に「貸稲」の語が登場し、これが出挙の前身ではないかとの見方もありますが、実際には757年に施行された養老令において「出挙」の語が現れ、これが制度化された日本の金利の起源だとみなされています。

 出挙という制度のそもそもの目的は、農民の生活を維持していくためのひとつの手段でした。出挙には国司が官稲を用いて行う「公出挙」と、個人が行う「私出挙」とがありました。律令制のもと、出挙は公出挙であれば、繁雑な事務を行わなくとも、強制的な公出挙を行うことで、多額の収入を確保することができたことなどから、国家の重要な財源となっていったのです。金利に当たる雑税のことは「利稲」と呼ばれていましたが、その利息は一般に公出挙で50%という高い利息だったのです。


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by nihonkokusai | 2011-10-03 15:48 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第4回 日本におけるお金の起源

 日本におけるお金と金利の起源について、歴史を探りながら見て行くことにしましょう。最近の中学生の社会の教科書などを読んでみると、昔の教科書とは、特に古代の記述が大きく変っていることに驚きます。たとえば青森県で発掘された三内丸山遺跡によって縄文時代の認識が大きく変わっています。縄文人は裸同然の格好をして主として狩猟で生計を立てていたと私たちは習った記憶がありますが、実際にはすでに縄文時代から貨幣を媒介とした財物の交換が広く行われていたことが明らかとなっているのです。

 当時は、矢じり、稲や布帛など交換価値が高いと認められた財物が物品貨幣として機能していました。ただし貨幣の役割のひとつ、価値の保蔵という観点からみると、稲や布などは耐久性の面で難点があり、貯蔵に際しては倉を建てる必要があるなど余分な費用負担も問題となります。富の蓄積が進むにつれて、日本の古代でも金銀といった貴金属のほか、瑠璃玉や紫水晶など耐久性に優れた奢侈品が富の蓄蔵手段として次第に使われていきました。

 金銀などの貴金属を貨幣として利用するに際には、地金などよりも一定の重量に鋳られた固まりのほうが便利です。飛鳥板蓋宮伝承地など7世紀後半の飛鳥時代を代表する遺跡のなかから「無文銀銭」と称される、小孔が穿たれただけの銀製の小円板が出土しています。この無文銀銭も和同開珎銀銭1枚と同等の価値を有する「貨幣」ではないかとする考え方が強まってきています。

 708年の和銅元年にわが国最初の「公鋳貨幣」として「和同開珎」が律令制府により鋳造されました。701年に「大宝律令」が完成し、平城京への遷都の準備中でもあった矢先に、現在の関東地方の武蔵国秩父郡で和銅が発見されました。遷都などで大量の資金が必要としていた政府は、中国などに習って貨幣発行の準備していたところでもあり、政府は年号まで「和銅」と改元して、わが国最初の公鋳貨幣を発行したのです。和同開珎は唐の時代に発行された「開元通宝」がモデルとされていますが、始皇帝が銭貨を統一する際から中国で用いられた円形方孔貨となっています。この和同銅銭には1個1文の価値が付され、江戸時代末までの約1200年間にわたってわが国貨幣制度のなかで重要な役割を果たした銭貨の基礎がこれによって構築されました。

 和同開珎以前に存在した貨幣として上記の「無文銀銭」と「富本銭」が知られていますが、「和同開珎」が広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣として認識されています。結局この「和同開珎」は畿内とその周辺では貨幣として使われたようですが、地方では富と権力を象徴する宝物としてしか使われなかったようです。

 和同開珎が作られた後、奈良時代から平安中期にかけて12種類の銅銭が公式に鋳造されました。これが皇朝十二銭と呼ばれているものです。いずれも形は円形で中央に正方形の穴が開いている円形方孔貨です。また、銅銭以外に銀貨として和同開珎銀銭や金貨として開基勝宝も作られましたが、広く流通することはなく、通貨としての機能は発揮されませんでした。

 皇朝十二銭を発行順に並べると、和同開珎(708年)、万年通宝(760年)、神功開宝(765年)、隆平永宝(796年)、富寿神宝(818年)、承和昌宝(835年)、長年大宝(848年)、饒益神宝(859年)、貞観永宝(870年)、寛平大宝(890年)、延喜通宝(907年)、乾元大宝(958年)となります。

 皇朝十二銭が発行された目的は、唐の開元通宝を手本に、日本における貨幣制度を整えることでしたが、もうひとつ平城京遷都などに伴う公共事業費のための財源作りも大きな目的となっていました。貨幣1文は平城京造営などの使役に対する1日分の労賃に相当し、原料の銅素材に対して3~5倍に相当する高い価値が与えられたそうです。

 しかし、私鋳銭と呼ばれる偽金を造る者が多く現れたことや、飢饉による米価の高騰に加え、材料となる銅の不足などから銭貨が小型化し、粗悪な品質の銭が次々に発行されたことで、銭の価値はしだいに下落していきました。

 平安時代に編纂された歴史書「日本紀略」に、987年に15の寺院で80人の僧が7日間にわたり銭貨の流通を祈願したとの記述があるように、粗悪となった銭は次第に使われなくなり、また政府による大規模な公共事業もなくなってきたことで、次第に銭を発行する意義が薄れ、乾元大宝を最後に皇朝十二銭の鋳造が取りやめとなりました。 これ以後、豊臣秀吉が貨幣をつくるまでの約600年の間、日本では統一した貨幣は造られませんでした。


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by nihonkokusai | 2011-09-30 19:38 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第3回 金利の起源

 世界史の中での金利の起源は、古代文明発祥の地の1つとされているメソポタミアにあったと言われています。この時代、すでに寺院や土地所有者による利子付きの貸し出しが行われていました。そもそもの利子の起源は、農業が始まった頃の「種籾(たねもみ)」の貸し借りによるものとされています。農民に対し神殿などが蓄えた種籾を貸し出し、それを借りた農民は借りた籾の量に3割程度上乗せして神殿に納めていました。これが利子の始まりとされているのです。

 メソポタミアのバビロンの商人は遠方との交易を活発に行なっており、バビロンの金持ちは妻子や財産を担保にとって、商売の資金を貸しつけていました。たとえばバビロンのエジビ家では他人から預金を受け入れて、それを使うのではなく、自己の資金から貸付を行っていたとの記録もあります。さらにメソポタミア文明の象徴とされるハムラビ法典では、銀の貸付利率の上限を20%と定め、借り手に銀のないときは銀対穀物の交換レートにしたがって、穀物で支払うことが出来ると記されています。さらに、古代バビロンでは、すでに複利による利子の計算が行われていました。

 ギリシア期にはアリストテレスが「憎んで最も当然なのは高利貸しである」と言ったように、商品を媒介せずに利子をとる貨幣の貸し付けを批判していました。すでにギリシアでは安全な保管を目的に、貨幣と地金の預託を受け入れ、契約により決まった一定の利息を支払うという個人商人が生まれていたのです。

 アリストテレスのように哲学者の多くが利子に対して批判的な見方をしていたのに対し、ソクラテスの弟子であるクセノフォンは、すべてのアテネ市民が利息収入を共有できる安全保管機関を設立しようとするなど利子に関しては好意的に見ていたものと思われます。 

 ちなみに「economy」という英語の語源であるギリシヤ語「オイコノミア」は、このクセノフォンが用いたものです。「オイコノミア」とは、「家」を意味するギリシア語の「oikos」と、「法律・法則」を意味する「nomos」が合成されたものです。

 旧約聖書では、「貧者」と「同胞」への利子は禁じていますが、お金を貸すことや利子を取ること自体は禁じられてはいません。しかし、利子を取ることは、ギリシアの哲学者たちと同様に、あまり好意的には取られていませんでした。新約聖書の中では、イルサレムの神殿には、そこを訪れる商人のために貨幣を両替し、預けられたいかなる貨幣にも利息を支払う両替商人がいたとの記述があります。 

 イスラム教では利子を取ることそのものが禁じられており、このためイスラム金融では利子ではなく、商品取引などから生じる利益や投資を行った結果の配当といった形態が採られています。

 共和制および帝政ローマ時代にはすでに両替商がおり、国家や貴族のための税金の処理や、債権者との貸借勘定の決済などを行っていました。貨幣を扱う商人は、預けられた貨幣に対して利子を支払い、両替にも従事していました。


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牛熊ゼミナール金融の歴史第2回 古代のギリシャ・ローマ・中国の貨幣制度

 紀元前6世紀頃のギリシア期において、貨幣使用を中心とした貨幣経済化が進みました。世界で始めて鋳造貨幣を造ったリディア人によりギリシアに貨幣がもたらされ、各ポリス、地域ごとに貨幣が発行されました。貨幣制度の普及により、商業が盛んになり商業に従事する富裕な平民もあらわれたのです。

 さらに紀元前4世紀に行なわれたアレキサンダー大王の遠征により、東西交易が活発化し、遠征によりペルシアの金銀が大量に持ち込まれたことで貨幣が増加するとともに、ギリシアの貨幣が中央アジアやインドにも伝わったのです。

 ローマでは、ローマ最古の成文法と言われる十二表法(BC450年)に罰金などが銅の重量単位で表されていましたが、鋳造貨幣が作られたのは紀元前3世紀頃と言われています。紀元前46年頃にカエサルのもとで行なわれた鋳造策などによって、貨幣体制は整ってきました。

 ローマの初代皇帝となったアウグストゥスは、紀元前23年にマエケナスに命じて通貨制度改革を実施し、ローマでの貨幣体系が確立しました。1アウレリウス金貨と25デナリウス銀貨、そして100セスティルティウス銅貨マエケナスの価値を同じものに固定しました。アウグストゥスは金貨、銀貨の発行権は独占しリヨンで発行されたものの、銅貨については元老院に発行権を残しローマで鋳造されてきました。

 これ以降、デナリウス銀貨は次第に地中海世界に広く流通いるようになりました。ローマの金貨がインドに流出するようになり、またシルクロードを使った東西交易が行われたことで、ローマの貨幣は現在の中東からアジアでも発見されています。

 ローマ帝国の収入は主に属州からの税でしたが、それだけでは巨大な軍事費や貿易に関わる費用などは補いきれず、不足分はスペインの銀山から産出される銀に頼っていました。3世紀ころから、皇帝たちの争いで国が乱れ、軍事費の増大などの支出が拡大し、さらにスペインの銀山の産出量が減少しインフレが進行しました。しかし、3世紀後半になるとむしろ金利の低下現象が起きており、インフレというより当時の主力産業である農業への年意欲の減速でデフレが進行していたのではないかと塩野七生氏は「ローマ人の物語」で指摘しています。

 カラカラ帝はデナリウス銀貨2枚に相当する新しい銀貨を発行しましたが、これがカラカラの本名にちなんでのアントニニアヌス銀貨と呼ばれているものです。この銀貨の銀の割合はすでに50%程度に低下していましたが、それからさらに半世紀以上経過した際には5%以下になっていました。四分割統治で名高いディオクレティアヌス帝は、通貨の改革を行い、通貨の安定を図る目的で301年に1000品目以上の物品やサービスについて最高価格令を発布しました。

 4世紀にはローマにおいてソリドス金貨、シリカ銀貨、フォリス銅貨などが発行されましたが、銅貨は次第に小さくなり、1グラムを切るものまで出てきました。312年にコンスタンティヌス大帝が発行したソリドス金貨は長い期間に渡り高い純度を維持し、その後11世紀末まで東地中海世界の標準貨幣として使われました。ノミスマとも称されたソリドス金貨は中世のドルとも呼ばれているように当時の基軸通貨となっていました。また、中世フランスや南米などで使われた通貨ソル(Sol)、中世イタリアで使われたソルド(soldo)、中世スペインで使われたスエルド(sueldo)などはこのソリドス由来するとされ、ドルのマークが$であるのも、ソリドス(Solidu)にあやかろうとしたものとも言われています。

 395年、ローマ帝国は東西に分裂、これ以降再び統一されることがなく、476年には西ローマ帝国が滅亡しました。11世紀になると東ローマ帝国は異民族との争いに加え内乱が続発し、封建化の進行などによって皇帝領が減少し国庫が困窮化しました。このため、金貨の品質を低下せざるをえなくなり、90%以上の純度のあったソリドス金貨は、1080年あたりになると30%程度に純度が低下し、1092年についに発行されなくなったのです。

 中国の最初の鋳造貨幣は、春秋戦国時代に作られた貝貨のような形をした蟻鼻銭(ぎびせん)と言われています。その後、中国では現在日本で使われている五円硬貨や五十円硬貨のように円の中央に丸い穴があいている円形円孔貨や、中央に四角い穴があいている円形方孔貨などが使われました。

 これらの貨幣は中国各地でバラバラに使われていましたが、紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝は、秦で用いられていた環銭の形に銭貨を統一し、すでに発行されていた「半両銭(はんりょうせん)」という円形方孔貨に統一されることになりました。この秦の半両銭には半両という漢字が刻まれていますが、ちなみに半両の両とは重さの単位です。

 ただし、実際に中国で「半両銭」による貨幣統一が実現したのは、秦王朝の滅亡後の漢王朝になってからでした。つまり楚の項羽との覇権争いに勝利した高祖・劉邦に引き継がれたのです。漢王朝は貨幣の鋳造を民間に委ね、「半両銭」への貨幣統一を実現しました。これには民間の銅製武器を銭に変えるという効果もあったようです。 118年に前漢の武帝は、半両銭に変る「五銖銭」を発行しました。この「五銖銭」はその後、唐で641年に「開元通宝」が登場するまで、約700年余りにわたり通用し、中国史上最も長期にわたり流通した貨幣と言われています。

 そして618年に建国された唐の時代に鋳造・発行されたのが「開元通宝」です。10銭が24銖、1両と同じ価値とされ、これ以降、貨幣の名称は重さではないものが刻まれてゆきました。「開元通宝」も唐の時代を通じて約300年間鋳造されました。「開元通宝」は日本の「和同開珎」のモデルとも言われ、日本を含めた東アジアに影響を与えました。

 このように。古代において「ソリドス金貨」や「五銖銭」、「開元通宝」などの通貨が数百年にわたり使われていたことはたいへん興味深い事実です。何故、これらの通貨は数百年にわたって信用を得ていたのでしょうか。2007年以降の世界の金融危機を見ても、信用が崩れさるのはあっと言う間であり、その信用を長きにわたり維持させることは並大抵のことではありません。信用維持のための対策としては、もっと昔に目を向けてみると、あらたな発見があるかもしれません。


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by nihonkokusai | 2011-09-28 14:48 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール・金融の歴史第1回 「物品貨幣から鋳造貨幣へ」

 原始時代を描いたマンガなどに出てきたお金といえば石でした。古代においては、石も実際に使われていました。また、古代中国やインドではお金として「貝」が使われていたことが知られています。ほかの国では「骨」や、「家畜」、「毛皮」、「穀物」、「塩」などが貨幣として使われていました。 古代にお金として使われていたものは、共同生活において利用価値が高いことや、貴重なもの、さらに保存がきくといったものが選ばれていました。これらは「物品貨幣」とも呼ばれています。

 文献などに残っている世界最古の貨幣は、古代中国の殷王朝(紀元前1600~1046年)で貨幣として使われた「子安貝」と言われています。「子安貝(タカラガイ)」は、当時たいへん貴重な貝の種類でした。貝という漢字も、タカラガイのなかの「キイロダカラガイ」という種類の形から生まれた象形文字です。このキイロダカラガイやハラビラダカラガイが古代中国の殷王朝で「貝貨」として使われていたのです。貨幣とか経済に関しての漢字には、「買」「財」「貴」「賓」といったように貝のつくものが多いのも、古代中国で貨幣として使われていたことに由来すると思われます。

 貝殻のように保存がきくということが、「お金」の重要な機能のひとつとなっています。保存が効くということは、価値を貯蔵することが可能となります。その後、お金の役割をしていた貝は、やがて自然のものから貝を真似て作られた銅製品に変化しました。銅や銀は貝などに比べて耐久性が優れている上に、運搬性にも優れているため、次第に金属が貨幣素材に利用されるようになったのです。

 その後、商工業などの発達に加え、銅や銀の産出や加工といった技術の向上により、金属貨幣が幅広く使われ始めました。メソポタミアでは銀を貨幣の代わりとしたとの記録が残っています。

 金や銀、銅などの貴金属金属は腐ったりすることがなく耐久性があり、他の金属を加えることで硬くなり、また分割したり足し合わせたりすることが比較的簡単にできます。さらに少量でも交換価値が高いことで持ち運びにも便利です。

 しかし、「お金」という言葉に含まれている価値の高い「金(きん)」の場合は、王家など支配者の政治的権威を示す装飾品として利用される傾向が強く、昔は貨幣素材に使われることは案外と少なかったそうです。

 当初使われた金属貨幣は貴金属の固まりや砂金といった計量を計って用いられたことで、「秤量貨幣」と呼ばれました。ただし秤量貨幣は、その品質を調べ、重さを量る必要があるなど不便な面がありました。そのため大きさや重さ、さらに混合物の量がきちんと決められたお金である「鋳造貨幣」が造られるようになったのです。

 鋳造貨幣は秤量貨幣と異なり、重さによって価値が決められるのでなく、個数によって価値が決められる貨幣です。それゆえに個数貨幣、又は計数貨幣とも呼ばれています。鋳造とは鋳型に融かした金属を流し込んで製造ことで、量産がしやすく複雑な形状のものでも作る事が可能となります。こうして現在、使われているコインの原型が生まれたのです。 世界における最初の鋳造貨幣は、紀元前7世紀ごろに現在のトルコ西部に位置するリディアで発行されたエレクトロン貨とされています。

 この素材となったのはエレクトラムと呼ばれた金銀の天然合金です。自然の中で採掘される金にはいくらかの銀などが混ざっていますが、その中でも銀の含有量が20%を越えるものをエレクトラムと呼んでいます。これは普通の金と明確に区別されて「琥珀金」とも呼ばれていますが、その色彩や輝きといったものが琥珀に似ていたためです。

 琥珀を意味するギリシア語の「エレクトロン」は半透明で黄金色のコハクが太陽(エレクトル)を連想させることから命名されました。こうしてこのエレクトロン貨は、金塊に人物や動物の絵を打刻してつくられ、この様式がギリシアやローマ以降の西洋式貨幣の基礎となりました。

 琥珀といえば、古代の琥珀の中の蚊から恐竜のDNAを抽出して恐竜を復活させるという映画「ジュラシック・パーク」を思い浮かべる方もいるかもしれません。琥珀は古代の樹脂が地中で化石化したものです。琥珀は布などでこすると静電気が発生することで、16世紀イギリスの科学者で電気を発見したギルバートは、この琥珀の性質にちなんで電気をエレクトロニクスと名づけました。

 お金の歴史から少し話題が逸れてしまったかに見えますが、実は現在のお金はその交換機能や保管機能がこのエレクトロニクスによってさらに発展し、現金通貨から電子マネーへと姿を変えつつあるのが、現在の「お金」の姿でもあるのです。


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by nihonkokusai | 2011-09-27 18:05 | 金融の歴史 | Comments(0)
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