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カテゴリ:金融の歴史( 60 )

牛熊ゼミナール金融の歴史第19回 徳川家康の経済政策

 関が原の戦いを制した徳川家康は、江戸や東海道筋などに親藩、譜代の大名を配置し、外様大名を地方に配置しました。さらに豊臣時代からの徳川家の蔵入地に加え、大阪や長崎、鉱山など重要な要地は「天領」という直轄地とし、そこからの年貢収入などが幕府の財政基盤となりました。1615年に出された一国一城令により、大名の居城を残しその他の城はほとんど廃城としました。これは大名の軍事力を弱めることが目的でしたが、これにより城下町がさらに発展することになり、城下町を中心に経済圏が形成されました。

 鎖国政策により、オランダや中国、朝鮮、琉球との貿易は幕府が独占することで、西国大名による貿易利益の獲得機会を消滅させ幕府の経済力を高めました。さらに海外からの情報も幕府に集中させたことによって、国際相場と乖離した金との価値の設定も可能となったのです。

 参勤交代制度は、移動の際に大名行列という大掛かりな行進を行う必要があり、費用がかさみ結果として大名の財政を圧迫することになりました。旅費とともに江戸での生活費用も負担となり、また街道の整備や宿場の整備などにも費用がかかる反面、江戸や宿場が賑わうなどの経済効果も生み出したのです。大名の経済出費には基本的に貨幣を使用することになり、そのためには幕府の公認貨幣の入手が必要となり、幕府の経済体制が全国に浸透することにもなりました。

 菱垣廻船や樽廻船や、河村瑞賢による湾岸航路の開拓などにより、日常生活物資や年貢の輸送のための海上輸送手段も整備され、江戸や大阪を中心とした大都市商業圏が形成されていったのです。


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by nihonkokusai | 2011-10-24 17:27 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第18回 秀吉の経済政策

 16世紀後半以降、西日本を中心に銭貨に加えて、米が再び交換手段として利用されるようになりました。戦国時代に保存の効く米が兵糧として重視されたこともあり、転売も容易な米が銭貨に代わる交換手段として改めて受け入れられるようになったのです。豊臣秀吉は太閤検地を行うことにより、米を経済の基礎とする石高制を取り入れ、年貢についても米納制の導入を図りました。撰銭などにより銭貨価値が不安定化していた時代に、価値が安定し換金性に富む商品である米を貨幣の代わりに手中に納めることによって、秀吉は全国統一の基盤を形成していったのです。

 太閤検地によって納税者と耕作者が同一として固定され、武士などによる中間搾取が禁止され、耕作者は領主からの直接的支配を受けるようになりました。土地の公用化が計られたのです。これにより大名は中央政権から知行が与えられ、中央政府の意向によって全国各地への移封が可能となり、江戸時代の幕藩体制の基礎が構築されたのです。さらに年貢となる米が武士のいる城下町に集められ、商人も城下町に定住するようになるなど、江戸時代の流通体制の基盤もこれによって形成されて行きました。

 秀吉は堺の今井宗久などの豪商と結んで鉱山開発を積極的に行い、生野や生野など全国の主要鉱山を直轄領としました。ちなみに佐渡金銀山の開発には、2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公である直江兼続が力を注ぎ、産出量を大きく高めました。秀吉は開発した鉱山から産出した金銀を用いて「秤量貨幣」を鋳造しました。金貨については後藤徳乗に命じて天正大判などを鋳造し、銀貨については湯浅作兵衛常是に大黒天の極印を打刻した良質の灰吹銀を鋳造させたのです。

 秀吉が鋳造を命じた金銀貨は大判と極印銀に限られていましたが、一定の品位を保った金銀貨を大量に鋳造したことにより、貨幣制度をあらためて構築され、それが徳川幕府による統一的な貨幣制度へと継承されることになるのです。貿易では、貿易港の堺を直轄地とした他、新たに博多を重視し、鉄砲の弾薬となる鉛と硝石の輸入、生糸貿易を独占したことで、これらにより秀吉は莫大な収入を得たのです。


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by nihonkokusai | 2011-10-22 16:26 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第17回 信長の旗印となった永楽銭

 室町幕府の時代になると、足利義満が明との朝貢貿易(勘合貿易)を開始し、中国銭の輸入は室町幕府が一元的に行いました。輸出品は金から主に銅や刀剣へと転じたものの、銅銭は引き続き輸入されていました。

 銅銭の中でも明の永楽帝の時代の1411年から作られた永楽通宝(永楽銭)が、室町時代中期に大量に輸入されました。明では洪武帝のときにすでに銭貨使用が禁じられ、紙幣からのちに銀に切り替えられていました。このため、永楽通宝は明では流通せず、輸出品として主に国外で流通していたと考えられています。

 その一方、日本では貨幣経済が急速に発展していたにもかかわらず、政府による鋳造は行なわれず、中国銭貨への需要が非常に高まっていたのです。そのために日本との貿易のために永楽通宝が鋳造されることになったのです。

 永楽通宝を中心とする明銭は当初、貨幣として受け入れられませんでした。このため室町幕府は明銭の使用を奨励した撰銭禁止令を公布しました。銅銭の質的な劣化や、渡来銭を真似て鋳造され私鋳銭の流通も増大し、15世紀後半以降、銭貨をその質的優劣にしたがって良銭(精銭)と悪銭(鐚銭)に区分し、悪銭については受け取りを拒否したり、もしくは割り増しをつけて受け取るという「撰銭(えりぜに)」という行為が行われるようになっていたのです。

 ただし、永楽通宝そのものは質が良く、関東地方を中心とする東日本では、素材価値が安定的で形状や品質がほぼ一定していたことで、永楽通宝が基準銭貨として使われるようになっていました。しかし、唐や宋の時代の古銭を貨幣として重視していた西日本では、明では貨幣としても通用していなかったことから永楽通宝はあまり使われていませんでしたが、16世紀半ばから次第に永楽通宝の地位が高まり、全国的に永楽通宝が基準貨幣として普及していったのです。

 そして、貨幣による経済の発展を強く意識した武将が織田信長であり、その旗印に貨幣(永楽通宝)の図柄を取り入れたのです。


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by nihonkokusai | 2011-10-21 17:29 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第16回 日本での金融業者の出現

 平安時代の末から大量の渡来銭が輸入され、貨幣経済の発達とともに、富裕な僧侶などが延暦寺など有力寺社の保護のもと、銭を貸して高利の利息をとる専門の金融業者が現れ、借上(かしあげ)と呼ばれました。鎌倉時代になると、これらの金融業者が担保として物品を預かるようになり、担保の品を保管するために土蔵を建てたことから「土倉」と呼ばれるようになりました。現在の質屋です。

 お金の貸し手が出てきたということは、当然ながら借り手が存在していました。貨幣経済が発達し、たとえば京都や鎌倉で過ごした御家人達は都市部での生活に慣れ、地方に帰っても同様の生活を送るようになり、消費が拡大しそのための借金をするようになっていたのです。そこに二度の元寇が起きたのですが、これにより領地が拡大されたわけできなく、国土を守った御家人たちへの恩賞は限られさらに窮乏し、借金を重ねることになったのです。

 こうした事態からの御家人の救済を目的として出されたのが徳政令です。1297年に出された最初の徳政令が、永仁の徳政令です。御家人が20年以内に質入れ、売却した所領をもとの持ち主に無償で返させるとともに、御家人の関係する所領についての訴訟を受け付けないこととしました。また今後の御家人所領の売買、質入れも禁止したのです。

 室町時代に入ると社会も不安定となり、土倉を持つ商人に貴重なお金や、財産や文書などを預けるものも現れました。商人は不特定多数の人々から利子付でお金を預かるようになり、預かったお金を元手に、貸し付を行う「合銭(ごうせん)」や、現在の為替に相当する替銭(かいせん・かえぜに)にも従事するようになったのです。

 このように土倉は預金や融資、さらに為替業務など現在の銀行に近い業務を営んでいたのです。これは日本の金融がヨーロッパ諸国に勝るとも劣らぬ古い歴史をもっていることを示しています。また、新興の禅寺などは「祠堂銭(しどうせん)」という貸し出しを行っていました。室町幕府は禅寺などにさまざまな特権を与えられて経済保護を受け、その基盤をもとに、利殖のため金融業も営んでおり、その収益の一部が幕府に入っていたのです。

 ただし、借銭・利銭、祠堂銭などによる当事の金利は年利で5~8割にものぼるとみられたいへん高利であり、返済は容易ではなかったのです。そのため、御家人階級や農民の生活を圧迫し、土一揆や国一揆などの要因となりました。


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by nihonkokusai | 2011-10-20 14:53 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第15回 日本での為替取引のはじまり

 為替取引とは、遠隔地間の貸借を決済する際に現金の輸送によらずに、手形・小切手などによって決済する方法です。「為替(かわせ)」という言葉は、現金と手形などを交替させることから「かわす」の連用形が名詞化されたと言われています。

 日本における為替取引の最古のものは、1048年の東大寺文書にみられる「替米」とされています。寺社などの荘園領主が年貢物の輸送に伴う不便や危険を回避しようとしたことから、中世に入り為替取引が発展しました。鎌倉時代には御家人が鎌倉や京都で銭や米を受け取る仕組みなどに為替が使われていました。また、諸司・諸家が発給した切下文・返抄といった個人への支払手段があり、これらが現在使われている小切手・手形の元になったとされています。

 渡来銭が流通するようになった13世紀後半になると遠隔地間の銭貨を対価とした為替(割符、さいふ)が登場しました。鎌倉時代後期から室町期にかけて商品経済が発展し、地方で買い入れた産物を都などで販売する商人や、地方と都市とを往来する行商人が現れました。また、定期市なども開催されるようになり、都で販売する特産物を地方で仕入れる際に都から代金としての銭を送金するため、割符・替銭という為替取引が使われるようになったのです。

 割符の受取人は危険と負担が伴いますが、商取引の発達により為替取引が活発化するようになったことで、その発行と支払いを専門とする割符屋が、京都や奈良、さらに堺や兵庫といった港湾都市に現れたのです。

 当時の割符の仕組みは、まず遠隔地の相手に代金を送金しようとする場合、送金者は最寄の割符屋に現金を持ち込んで手形(割符)をもらいます。そして送金する相手方にその手形を送ります。その手形を受け取った相手方は、今度は最寄りの割符屋にこれを持ち込み,手形に記された金額の金銭を入手するというものです。現在の銀行間のネットワークのように、割符屋間同士のネットワークが形成されており、このような取引が可能となったのです。


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by nihonkokusai | 2011-10-19 16:16 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第14回 渡来銭

 平安時代の中期に皇朝十二銭は鋳造が取りやめとなり、それまでの貨幣は粗悪で使われなくなったことで貨幣は交換手段として利用されなくなりました。その後、価値基準として使われたのが米や絹でした。しかし、平安時代の末期から農業生産力が向上し、商品流通の拡大などを背景として貨幣に対する需要が高まりました。また、中国との貿易などにより大量の銅銭が輸入されるようになり、「渡来銭」と呼ばれた銅銭が貨幣として使われるようになったのです。

 中国からの銅銭の購入に使われたのは奥州などで産出された「金」でした。当時の日本は東アジア地域有数の金の産出国であり、大量の金が中国向けに輸出されており、それがマルコ・ポーロの「東方見聞録」における 黄金の国「ジパング」伝説に繋がったのです。渡来銭はその後、室町時代中期あたりまで国内に流入し、江戸時代前期まで国内貨幣として広く流通することになります。

 平清盛は南宋との貿易で大量の銅銭を輸入し、朝廷に働きかけて銅銭の流通の許しを得て渡来銭を決済手段とし、これにより絶大な経済力と権力を手中にしました。大量の銭が流通することにより貨幣経済も急速に進んだのです。

 平家が壇ノ浦で滅亡し、源頼朝が開いた鎌倉幕府は中国からの銭の輸入を行いませんでした。その後、一時的に銅銭の流通を認めたものの、貨幣経済が混乱するとの理由から、再び銅銭の流通を否定しました。しかし、貨幣経済の進展により、1226年に鎌倉幕府も渡来銭の利用を公式に認めるようになったのです。国内での貨幣の鋳造が行われなかったのは、当時の政府には地方で産出される銅から貨幣を生産するほどの力が存在していなかったことも要因です。

 輸入された大量の渡来銭を基礎に、銅銭中心の経済となっていた当時の日本で、ただ一度だけ紙幣の発行の動きがありました。それは後醍醐天皇による建武の新政の中で計画されたものでした。後醍醐天皇は建武元年の1234年に、乾坤通宝という新貨を「銅楮並び」行わせようとしました。この「楮」とは紙のことで、乾坤通宝は銅銭と紙幣の二種類での発行が計画されたのです。


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by nihonkokusai | 2011-10-18 18:20 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第13回 イギリスにおける国債への投機

 イギリスで1720年の南海バブルの崩壊以来、株式にかわって投機の対象になったのが、国債です。1734年にサー・ジョン・バーナード法により先物とオプションの取引禁止が定められたのですが、この法律に触れないようなかたちでの取引が編み出されていたのです。

 たとえば先物取引の際に、はるか先の期日を決済日とする方法がとられました。1730年代には四半期ごとに決済する方法が一般的になり、その後6週間を決済期間とする方法に移行しました。国債担保融資も行われ、また証券取引所ではオプション取引も活発に行われていたのです。

 ナポレオン戦争の間、イギリス政府は4億ポンドを超える国債を発行し、この国債を対象とした投機により、50万ポンドを超す資産を形成した人物がいます。この資産を得たのち若くして引退し、「比較優位の原則」などで有名な経済学者となったデイビッド・リカードです。


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by nihonkokusai | 2011-10-17 13:47 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第12回 ミシシッピ計画と南海バブルの崩壊

 スコットランド人のジョン・ローは、フランス王立銀行の設立に寄与し、1717年にフランス領ルイジアナミシシッピー金鉱開発を目的としたミシシッピ会社を設立しました。その後、フランスの東インド会社や中国会社を併合し、造幣局そして中央銀行の王立銀行までも傘下に収めたのです。

 新会社はルイ14世が生み出した総額15億ルーブルもの政府債務をすべて肩代わりしました。新株発行の払込については国債を額面の2割で引き取ると発表し、払込については4回の分割払とし最初の1回だけ現金、残りの3回は手形でよいとしたのです。これらのプロジェクがミシシッピ計画と呼ばれたものです。 国債そのものや手形で新株が購入され、1720年に政府の全負債はこの会社に移り、フランス国債の保有者はこの会社の株主となったのです。政府は多額の債務返済を一時的に免れ、債務免除されたような状況になりました。

 さらに王立銀行の株式払い込み手形を貨幣として機能させ、金貨が紙幣へと置き換えられました。ミシシッピ会社の株が値上がりすると紙幣を増発され、これにより資産バブルが発生し、未曾有の投機ブームが起こりました。当初500ルーブル以下であった株価は1719年後半には2万ルーブルを上回るまでに上昇したのです。ところが1720年に入り投資家が売却益を得ようと売りが殺到し、株価は急落しました。さらに払込手形という紙幣を金に替えようと王立銀行に人が殺到した結果、ローは払込手形の金との互換性を失効させる宣言をし、ミシシッピ計画は破綻したのです。

 投機資金がイギリスからパリに流れるようになり、それを危惧したイギリス政府はジョン・ローの制度を利用し南海会社を設立しました。1711年にイギリスで南アメリカのスペイン植民地との貿易の独占権を与えられた南海会社が設立されました。ただし貿易では収益が上げられず、富くじの成功により金融機関として成功を収め、1719年に総額170万ポンドの年金型国債を引き受け、それを自社株式に転換したのです。

 国債の保有者には当初の転換比率より有利な条件で株式の転換を提案し、また南海会社の株価が高いほど国債との交換に必要な株数が減り、会社と政府に分配される利益が多くなる仕組みを取り入れた結果、関係者すべてが南海会社の株価上昇で利益が享受できる仕組みとなっていたのです。

 南海会社の株の売り出しは年4回にわたり実施され、ジョン・ローがミシシッピ会社の株式発行の際に使った方法を取り入れ、当初の払い込みは総額の2割に抑え、自社株を担保に株主に融資するなどしたことで、その都度株価は大きく上昇していったのです。

 これをきっかけに投資ブームが起こり、毎日のように新興企業が設立され、投機熱は社会階層の壁を超えて強まり、株価は大きく上昇しました。1720年の夏に、類似企業との過当競争を回避しようと、会社の設立には議会の許可を義務付ける法律が制定されました。しかし、この法律の制定などが結果として株式市場の加熱を冷ますこととなり、一気に地合が悪化し南海会社の株価は急落し、経営陣までもが株を手放しました。売りが売りを呼ぶこととなりバブルは崩壊していったのです。1721年、イギリスはバブル防止法を制定、企業に新たに株式公開することを禁止し、それは100年の間続くこととなったのです。

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by nihonkokusai | 2011-10-14 15:52 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第11回 アムステルダム取引所

 1585年にスペイン軍がアントウェルペンに侵攻したことでアントウェルペンの取引所は没落し、それに変わって栄えたのがアムステルダムです。17世紀はじめにオランダは、商人が世界各地に進出し、ヨーロッパで最も経済が発達した国となりました。  オランダは株式会社に加え、銀行、複式簿記、為替手形、そして証券市場などが発達し商業資本主義の基礎を築き上げました。世界最初の中央銀行はスウェーデンのリクスバンクと言われていますが、1609年に市の条例で設立されたアムステルダム振替銀行ではないかとの見方もあります。預金には金利はつかず、保有する金の範囲でしか紙幣を発行せず、融資はほとんど行いませんでした。こうしたアムステルダム振替銀行の高い信用などを背景に外国為替の割引が活発に行われ、これによりアムステルダムが国際的な取引で支配的な地位を確立したとも言えるのです。

 1530年に設立されたアムステルダム取引所では商品、為替、株式、債券そして海上保険などあらゆる種類の金融商品や金融サービスが売買されていました。そして取引の主流は先物取引となり、穀物や香料、砂糖や銅、硝石などの先物取引が行われていました。

 世界最初の株式会社であるオランダ東インド会社の設立も大きく影響し、アムステルダム取引所では多くの株式が集められ、その株式に加え、すでに株の先物やオプションの取引も行われていました。

 アムステルダム取引所では、買い方、つまり強き筋(ブル)と、売り方、つまり弱き筋(ベア)の攻防戦が繰り広げられていました。このブルとベアの語源は、ベアが「捕らぬ熊の毛皮を売る」という諺から来たとの見方があります。日本の諺の「捕らぬ狸の皮算用」と同じように、入手できていないものを売る、つまり空売りをするという意味となります。これに対してブルはドイツ語の「吠える」を意味するビューレンを語源としているとの見方があります。


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by nihonkokusai | 2011-10-13 17:57 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第10回 株式会社の誕生

 新たな航路の発見により東方交易が拡大し、それが莫大な利益を生むことがわかり、次第に官民あげて取り組むことになりました。そこに生まれたのがジョイント・ストック・カンパニーです。

 航海というリスクが大きいながらも収益性の高い事業に対して国王から独占権が与えられ、それとともにすでに資金調達のために用いられ始めていた譲渡可能な株式が結びついて、ジョイント・ストック・カンパニーと呼ばれた巨大な株式会社が設立されたのです。

 その中でも特に有名なのが「東インド会社」です。オランダ、イギリスを始めフランス、ドイツ、スウェーデンなどもジョイント・ストック・カンパニーである「東インド会社」を設立し、東方交易に乗り出したのです。

 オランダからは複数の会社が東南アジアに進出したのですが、同国の会社間での競争が激化し共倒れの危険性があることから、過当競争を避けるために、1602年にオランダ東インド会社として統合されました。オランダ東インド会社の株式の譲渡は自由であり、株主の責任が有限責任であったことなど近代的な株式会社の性格を帯びており、その後200年間も存続し、ヨーロッパ諸国の株式会社のモデルとされたのです。

 イギリス東インド会社は、初期には航海ごとに臨時に会社が設立されて清算を行うなどしていたことで、すでに永続的な会社組織となっていたオランダ東インド会社との競争に勝つことができないとして、1657年に清教徒革命で有名なオリヴァー・クロムウェルによって、イギリス東インド会社の資本構造などの会社組織の改組が実施され、オランダと同じような永続的な企業組織となりました。ちなみにイギリス東インド会社は1613年に日本の平戸に商館を設置しています。

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by nihonkokusai | 2011-10-12 15:51 | 金融の歴史 | Comments(0)
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