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カテゴリ:金融の歴史( 60 )

牛熊ゼミナール金融の歴史第28回 日本国債のルーツの御用金

 江戸時代には江戸や大阪の商人から半ば強制的に御用金と呼ばれるものを徴収していました。御用金とは幕府が慢性的な財源不足や臨時の支出を補填するために発令したもので、江戸や大阪の商人などから半ば強制的に金銀を徴収していたものです。利子付きであり、元金返済を前提としているので強制的な「公債」という性格を持っていました。その利子も年利2~3%という超低利であり、現在の国債と同様のものとなっていました。

 1761年大坂の商人205名に対し170万両を命じたのが最初です。当初は大坂や江戸の豪商に対して課せられたものでしたが、その後は堺、兵庫、西宮などの富裕町人、さらには一般町人や農村の富裕層にも命じられるようになりました。幕末に近づくほど頻繁に発令されました。特に1866年第2次幕長戦争の際には、大坂・兵庫・西宮の商人に700万両の御用金が指定されました。ただし、利子がしっかり支払われたのは最初の数年間のみで、幕末になるにつれ、利子はもちろん元金もほとんど償還されなくなっていったようです。 明治政府も当初、財政確保のためしばしば御用金を課したのですが1869年に廃止され、国債制度に切り替えられたのです。

 牛熊ゼミナール金融の歴史は今回で第28回目を迎え、これにて中世・近世における金融(日本編)が終了です。これで掲載予定のもののおおよそ半分が終了しました。次回からは、再び海外に目を向け、時代も近代へと移ります。もしよろしければ牛熊ゼミナール金融の歴史のご感想などいただけるとうれしいです。


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by nihonkokusai | 2011-11-07 18:08 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第27回 開国と金の流出

 南鐐二朱銀発行により銀貨は秤量貨幣から金貨単位の計数貨幣となり、文政・天保期においては財政補填を目的として計数銀貨を中心に改鋳が実施されました。さらに、三貨制のもと銀貨は本来補助貨幣であったものの、金貨と並ぶ基本貨幣として機能しました。計数銀貨の価値としては天保一分銀4枚が小判1枚に等しいと定められ、計数貨幣における銀貨と金貨との交換については素材価値とは独立した比率が適用されたのです。計数銀貨の普及とともに、日本における計数銀貨ベースの金銀比価は当時の国際相場(1対15)を大きく上回る1対5~6程度にまで上昇していたのです。つまり、日本では国内要因により、金貨に対する銀貨の信用度が海外に比べておよそ3倍程度高めに設定されていたのです。

 1853年にペリーが浦賀に来航し、1854年に日米和親条約を締結し、さらに1858年の日米修好通商条約により、貨幣の交換比率は銀貨を基準に定められたことで問題が発生しました。当時のアジア貿易で貨幣に使われていた多くがメキシコドル(銀貨)でした。一方、日本国内では一分銀が使われていました。米国総領事のハリスは市中に流通している天保一分銀は2.3匁(8.62グラム)であり、1メキシコドル銀貨は26.73グラムであり、100ドルは一分銀310枚に相当するため、1ドル銀貨の約1/3の量目(質量)である一分銀3枚を持って1ドルに換えるべきであると主張したのです。

 名目貨幣としての銀貨は国際的には通用しないとの理由で、同種同量交換の1対3分の交換比率を承諾させられてしまったのです。日本国内における計数貨幣としての銀貨は、国際相場に比べて金貨に対して3倍程度割高であったことから、これを受けて日本の金が大量に流出されることになったのです。

 たとえば4メキシコドルを銀に換えると一分銀12枚になります。これを、日本国内で金貨に換えると、一分銀4枚で金1両と交換できるため銀12枚だと金3両となります。この金3枚を海外でメキシコドルに戻すと、国際的な交換比率により金1両がメキシコドル4枚となるため、金3枚で12ドルになります。したがって、日本を通すだけで4メキシコドルが3倍の12ドルになる仕組みとなってしまったのです(NHK高校講座「日本史」より)。

 幕府は金貨の大量流出を懸念し、開港直前の1859年5月に額面価値を半分に落とした安政二朱銀を新鋳し、海外並みの金銀比価を実現しようとしました。しかし、諸外国からの強い反発に押し切られ、この対応政策は中止に追い込まれてしまったのです。日本における計数銀貨の金貨価値が国際相場の約3倍に過大評価されていたため、このようにリスクなしに多額の利益を得ることができたことで、アメリカ、イギリスなどの商人により日本から1年余りで約50万両もの金が流出してしまったのです。

 これを受けて徳川幕府では、1860年4月に金貨1両当たりの金の含有量を約3分の1に引き下げるという金貨改鋳を行い、これによって国内の金銀比価はほぼ海外並みとなり、金貨の海外流出に歯止めがかかったのです。しかし、これにより貨幣価値が下がり、物価が上昇し極度のインフレ状態が引き起こされ、政情を不安定化させる要因ともなったのです。


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by nihonkokusai | 2011-11-04 16:36 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第26回 計数銀貨の誕生

 1765年、田沼意次は勘定吟味役の川井久敬の提案を受け入れ、それまでの丁銀と豆板銀に限られていた銀貨に加え、まったく新たな銀貨を発行させました。重さを5匁に固定した五匁銀です。これにより日本で初めての額面を明示した計数銀貨が生まれたのです。このように銀貨と金貨との価値を固定化すれば、銀貨は金貨単位の貨幣となることで、幣制の統一が可能となるのです。

 これは秤で計ることなく通用させるのが目的で、五匁銀12枚を金1両に固定することで、銀相場の影響を受けることなく、銭の代わりとなるものと期待されたのです。しかし、当時の相場が1両63匁近辺であり、1両60匁に固定されたレートでは損失が発生することや、相場変動を利用しての両替で利益をあげていた両替商の抵抗もあり、結局、明和五匁銀は流通が停止されてしまいました。

 しかし、田沼意次は計数銀貨の発行をあきらめず、勘定奉行に出世していた川井久敬は銀座に命じ南鐐銀と呼ばれたほぼ純銀を使用した二朱銀を作らせ発行させたのです。この方形の新貨の表面には「以南鐐八片換小判一両」と書かれ、これが1両の八分の一、つまり二朱であることを明示したのです。

 南鐐とは良質の銀、純銀を意味した言葉であり、実際に二朱銀は純銀に近いものであったものの重さは2.7匁しかなく、本来の2朱相当の銀量の3.5匁よりも少なかったのです。この銀貨に対しても両替商などの抵抗はあったものの、「南鐐」のための信用度の高さや、使い勝手の良さにより、次第に普及して行きました。貨幣経済の発達により名目貨幣ではあっても、銀貨は次第に身近な貨幣として社会に受け入れられていったのです。

 南鐐二朱銀の発行の成功により、金貨体系による幣制の統一が実現されました。これは「金貨本位制」の確立に向けた日本の貨幣金融史上きわめて重要な改革となりました。その後、幕末までに7種類の計数銀貨が発行され、銀貨の約9割が計数銀貨となったのです。


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by nihonkokusai | 2011-11-03 17:40 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第25回 大名貸し

 全国の諸藩は大坂の蔵屋敷を通じて年貢米のほか特産物を売却し、その資金で必要な物資を購入していました。蔵屋敷ではこれらの売買業務を商人に委託しており、産物の搬入や保管の業務は蔵元と呼ばれたのに対し、売上代金の回収や為替の取り組みなど金融に関する業務は掛屋と呼ばれ、大手の両替商が行っていました。諸藩の財政は主に米で成り立っていたのですが、年貢米の売却による収入が秋から冬に集中するのに対し、諸費用の支払いは毎月あることで、収入と支出に期間のズレが生じました。この季節的な収支不足調整のためのつなぎ資金を供与したのが、掛屋と呼ばれた両替商であり、この一時的な資金の貸付が「大名貸し」と呼ばれたものです。

 江戸初期において大名は社会的信用が高く、商人にとっても安全かつ有利な資金運用先となっていました。ところが、藩の財政事情の悪化により、江戸中期に入り「お断り」と称して借金の未払いが続きました。大名に対しての社会的信用が低下し、「お断り」に対応するために両替商は今で言うところのシンジケート団を組織し、貸し倒れリスクのための情報共有も行われるようになったのです。江戸時代後期になると、大名の財政はより深刻化し、両替商の融資態度はさらに慎重化したことで、次第に大名貸しは衰退し、諸藩の財政は藩札の発行などに頼るようになって行きました。


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by nihonkokusai | 2011-11-02 16:07 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第24回 大阪堂島で生まれた先物市場

 世界最初の取引所といわれている16世紀のアントウェルペン取引所では、すでにオプション取引や先渡し取引が行われていたのですが、現在の形式での先物取引などのデリバティブ取引の原型となっていたのは、江戸時代の大阪堂島で行われた米の先物取引です。

 大坂には諸藩が設けた蔵屋敷に年貢米が送られます。米の売却は蔵屋敷での競争入札で行います。落札した業者は代金の一分を支払い、蔵屋敷発行の米切手(米手形)を受け取り、一定期日以内に米切手と残銀を持参して蔵屋敷から米を受け取る仕組みとなっていました。この取引が時代とともに少しずつ変わり、米切手が転売されていくようになり、米切手そのものが米現物の需給に関係なく売買の対象となっていったのです。

 大坂の北浜に、淀屋の米市と呼ばれる米市場があったのですが、のちに淀屋市が堂島に移りました。堂島米市場で売買されていたのは落札された米切手です。米の売買に際し現物の代わりに1枚10石単位の米切手という倉荷証券が授受されたのです。米切手は米の保管証明書から一定量の米に対する請求権を表した商品切手に変わり、有価証券化して行きました。つまり堂島米市場は有価証券取引が行われた証券市場であったのです。

 堂島米市場では着地取引として米の廻着を待たずに米切手が先売りされるようになりました。米切手の保有している商人は米の価格変動リスクにさらされることとなり、この米価の価格変動リスクのヘッジを目的として「売買つなぎ商い」という先物取引が考案されたのです。この「つなぎ商い」が1730年に徳川幕府により公認され、堂島米会所が成立したのです。

 堂島米会所では、米切手を売買するいわゆる現物取引の「正米商い」に加えて、米の先物取引である「帳合米商い」が行われました。帳合米商いとは1年を春夏冬の三期にわけてそれぞれ4月28日、10月9日、12月24日を精算日とし、各期に筑前・広島・中国・加賀米などのうちから1つを建物(標準米)として売買し、反対売買による差金決済を原則とする取引です。 正米商いと帳合米商いともに消合場と呼ばれた株仲間組織によるしっかりとした清算機関(クリアリングハウス)が存在していました。不正を行った株仲間を取引停止にするといった処置も講じられ、市場秩序が維持されていたのです。こうして帳合米商いは、現在の先物取引と同様にヘッジ目的だけでなく投機目的でも積極的に商人が参加し、世界に先駆けた先物市場が発展していったのです。


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by nihonkokusai | 2011-11-01 08:31 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第23回 銀行の前身は両替商

 江戸時代の三貨制度により金・銀・銭という3種類の貨幣が支払手段として利用され、両替商はこの金銀銭貨の交換ニーズを背景として登場しました。両替とは「両」つまり主に東日本で使われた計数貨幣である「金」を、西日本で使われていた秤量貨幣である「銀」、もしくは小額の計数貨幣である「銭」と替えるという言葉からきています。さらに大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期などにより相場が変化する変動相場となっていたことで、手数料を取って両替をするという仕事が生まれたのです。

 両替のためには基準になる相場を決めなければならず、両替屋の大手が集まりその日の経済動向を読みながら相場を立てていました。この相場は大きな資金を動かす政府である幕府にも報告されるのです。天下の台所と呼ばれた大坂では、全国各地の諸産物が集まり売買されていました。取引の多くは通帳などに基づき信用で売買された後に、商品ごとに定められた期日に代金が支払われました。この決済手段に使われたのが、銀目手形と呼ばれた手形です。このように大坂の商人は、可能な限り現金銀の取り交わしを避け、現金銀を両替商に預け入れ、手形によって決済するといった慣習が出来上がりました。

 両替商はこの銀目手形(決済手段として利用された手形)の引き受け・決済や資金融通を通じ、大坂で発展したのです。さらに両替商は業務を広げ、商人や大名、そして幕府などを取引相手に、預金の受け入れ、手形の発行や決済、加えて、貸し付けや為替取引など各種の金融業務を広く営むようになりました。このように両替商は現在の銀行業務に近い金融機関としての役割を担っていたのです。特に手形の決済制度などは、同時期の欧州など諸外国の金融システムに比べても、かなり発達したものとなっていました。この信用制度の確立により、さらに大坂での商業活動が活発化しました。


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by nihonkokusai | 2011-10-31 18:28 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第22回 江戸時代の貨幣の改鋳

荻原重秀による改鋳

 金銀の海外流出とともに日本国内の金銀の産出量が低下しました。米の生産高の向上や流通機構の整備などにより、国内経済が発展し貨幣需要が強まったものの、通貨供給量が増えなかったこともあり、米価は上昇せずデフレ圧力が強まりました。五代将軍綱吉は豪奢な生活を送っていたことに加え、寺社や湯島聖堂などを建立するとともに、明暦の大火や各地で発生した風水害などにより、慢性的な赤字を続けていた財政がさらに厳しくなり、幕府は1695年に貨幣の改鋳に踏み切ったのです。

 将軍綱吉は勘定吟味役の荻原重秀に幕府の財政の立直しを命じ、荻原重秀はそれまで流通していた慶長小判(金の含有率84-87%)から、大きさこそ変わらないものの金の含有率を約57%に引き下げた元禄小判を発行したのです。また銀貨の品位も80%から64%に引き下げられました。しかし、金銀貨の品位引き下げが均衡を欠いていたことから、銀貨の対金貨相場が高騰し、一般物価も上昇したのです。このため1706年以降、銀貨が4回に渡り改鋳され、1711年の改鋳により銀貨の品位は20%と元禄銀貨の3分の1にまで引き下げられました。金貨については1710年以降、品位を84%に引き上げたものの量目を約2分の1にとどめ、純金含有量が元禄小判をさらに下回る宝永小判を発行したのです。

 これらの改鋳により幕府の財政は潤ったものの、これにより通貨の混乱とともに物価の急騰を招き、庶民の生活にも影響が出たのです。荻原重秀に関してはインフレを引き起こしたといった批判とともに、デフレ経済の脱却を成功させ元禄時代の好景気を迎えたとの見方もあり、評価は分かれています。また、荻原重秀は著作を残していませんが「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以てこれに代えるといえども、まさに行うべし」と述べたとも伝えられています。藩札などの紙幣も発行されていたことで、貨幣の発行には信用の裏づけがあればたとえ瓦でも石でも良いとする、現在の管理通貨制度の本質を当時すでに見抜いていた人物でもあったと言われています。

新井白石による改鋳

 六代将軍となった徳川家宣は、新井白石からの建議を受け綱吉時代の財政金融政策を見直し事態の立て直しを図りました。これが「正徳の治」です。金銀貨の質を徳川家康が作らせた慶長と同様なものに戻し、これによって小判貨幣量を減少させるために金銀貨の品位・量目の引き上げを行いました。

 1714年に金貨の品位を慶長金貨 (84~87%)にまで引き上げる改鋳が行われ、元禄・宝永小判二両に相当する品位84%の正徳小判を発行しました。しかし、正徳小判の品位は慶長小判に劣るとの風評が立ち、翌年にはさらに品位を若干高める改鋳を行い、後期の慶長小判と同品位の享保小判(品位87%)を発行したのです。

 新井白石は長崎貿易についても統制令を出して貿易総額を規制し、また、銅の輸出にも歯止めをかけようとしました。加えてこれまでの必需品としての輸入商品であった綿布、生糸、砂糖などの国産化を推進しました。

 元禄文化に象徴される華美・贅沢な風潮を改め、幕府も徹底的な倹約に努めました。しかし、幕府による財政支出の減少や武士層の消費が大きく減退し、現在で言うところの公共投資と個人消費が減少しました。さらに金銀貨の流通量の減少傾向が強まり、物価は大きく下落し、日本経済は再び深刻なデフレ経済に陥ったのです。特に幕藩体制を支えていた米価の下落は農民や武士の生活に深刻な影響を及ぼしました。経済の安定のためには物価をコントロールする必要性があるものの、その難しさというものも荻原重秀と新井白石の政策の影響から伺えます。

将軍吉宗による改鋳

 宗家紀州徳川家から八代将軍に就任した徳川吉宗は、新井白石を解任するなど人事の一新を図りました。そして享保の改革を通じて、危機的状況にあった幕府財政の建て直しのため、倹約による財政緊縮を重視しデフレ政策を実施したのです。これにより物価はさらに下落し、特に米の価格下落が激しくなりました。このため、吉宗は米価対策を打ち出したものの、商人による米の買い上げなどの政策も功を奏さず、その結果、インフレ策として金銀貨の改鋳による通貨供給量の拡大を計ることとなったのです。

 ただし、改鋳に当たってこれまでのように出目といわれる改鋳による差益獲得の狙いはせず、新貨幣の流通を主眼に置いたのです。すなわち、元文小判の金の含有量は享保小判に比べて半分程度に引き下げられたのですが、新旧貨幣の交換に際しては旧小判1両=新小判1.65両というかたちで増歩交換を行ったのです。しかも新古金銀は1対1の等価通用としたことで、この結果新金貨に交換したほうが有利となり、新金貨との交換が急速に進み、貨幣流通量は改鋳前との比較において 約40%増大したのです。貨幣供給量の増加により物価は大きく上昇し、深刻なデフレ経済から脱却し適度のインフレ効果を生み出しました。


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by nihonkokusai | 2011-10-28 17:28 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第21回 江戸時代の金銀銅の海外流出

 1639年に幕府はポルトガル船の入港を禁止し、いわゆる鎖国に入ったのですが、これにより日本の貿易高は減るどころかむしろ増加しました。ライバルのポルトガルが日本市場から撤退し、これによりオランダは世界最初の株式会社である東インド会社を経由した日本との貿易で大きな収益をあげ、17世紀に欧州での繁栄を築き上げたのです。

 ポルトガルは日本の銀を介在してのアジアでの三角貿易を行っていましたが、オランダも同様に中国で購入した生糸などを日本に持ち込み、それを銀と交換したのです。これにより大量の生糸が日本に流入するとともに、大量の銀が海外に流出しました。またオランダはインドとの貿易に金を使っていたことで、オランダ経由で大量の金も流出していきました。

 幕府は金銀の流出を防ぐために、金や銀の輸出禁止などの政策を打ち出すものの、国内に生糸や砂糖などの輸入品への需要が強く国産品では対応できなかったことで、結局、その対価として金銀が用いられたことで解禁せざるを得なくなり、金銀は流出し続けたのです。

 日本の金銀の流出先としては、貨幣の材料として銀を必要としていた中国だけでなく、インドなどに流れ、また金貨についてはインドネシアのバタフィア(現在のジャカルタ)で日本の小判がそのまま流通しており、オランダ本国でもホーランド州の刻印の打たれた日本の金貨が使われていました。

 金銀の流出制限のため幕府は1685年に貞享例を施行し貿易額そのものを規制しました。また、元禄の改鋳などにより金銀の質を低下させたことから、貿易の支払いに対しては、金銀に変わり、次第に俵物と呼ばれる加工食品とともに銅が使われるようになったのです。


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by nihonkokusai | 2011-10-27 18:47 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第20回 日本における紙幣の誕生

 日本における現存する最古の紙幣は、1610年に伊勢の山田において、支払いを約束する預り証の形式をとって発行された山田羽書(はがき)です。伊勢神宮に仕える有力商人が、高い信用力と宗教的権威を背景に、釣銭などの煩わしさを少なくするために発行された紙幣であり、額面金額も銀1匁以下の小額となっていました。形や文様が統一されたことで、不特定多数の人々に交換手段として利用が可能なように作られており「紙幣」として利用されたのです。

 ちなみに、世界で最古の紙幣は10世紀に中国四川省で送金手形を利用する際に発行された証明書(預り証)ですが、日本はこれに次いで世界で二番目に古く紙幣を発行していたことになります。

 その後、私札は伊勢国、大和国、摂津国など近畿地方を中心に、有力商人がその「信用力」を元に発行し、室町時代末期から江戸時代初期にかけて約60年の間、流通しました。こうした私札に目をつけた各藩が発行したのが「藩札」と呼ばれる紙幣です。藩札の最初は1630年に始まった備後の福山版のものと言われていますが現物は残っておらず。現存するものとしては1661年の福井藩の札が最古のものとなっています。私札も藩札も江戸時代後期まで、ほとんど銀立の額面で発行されていますが、これは西日本では銀が経済の主流であったことが要因です。

 紙幣については乱脈な発行によるインフレへの懸念とともに、偽札の問題が生じます。世界で最初に紙幣を発行した中国では、偽札防止のため細かな文字や文様などを組み合わせ簡単には真似のできない工夫がされていましたが、日本の藩札も同様に色刷りや透かしなどが実用化されていました。1856年に浜松藩が出した銀札にはオランダ語を入れるなどの工夫も行っていたのです。


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by nihonkokusai | 2011-10-26 19:07 | 金融の歴史 | Comments(0)

牛熊ゼミナール金融の歴史第20回 江戸時代の三貨制度

 天下統一を果たした徳川家康は全国支配を確固なものにするため、963年に皇朝十二銭の発行が停止されて以来となる中央政府による貨幣を鋳造し、貨幣の統一に着手しました。最初に発行されたのが金貨と銀貨です。金貨は大判、小判、一分金、銀貨は丁銀と豆板銀です。

 金貨の単位は両、分、朱となり一両の四分の一が1分、一分の四分の一が1朱です。十両の重さのある大判という大型の金貨は、主に恩賞用・献上用に特別に作られたもので、通貨として流通しませんでした。大判といえば豊臣秀吉が作らせた天正大判が有名ですが、こちらは165グラムもある世界最大の金貨です。

 大判に対して文字通り通貨として作られたのが、小判と一分金です。時代劇に登場する小判には一両という刻印が刻まれていますが、本物の小判にも一両という刻印が打たれ、現在の1万円や100円と記されている貨幣と同様の「計数貨幣」として通用したのです。ただし、大判の「両」については重量単位となっています。

 流通する金貨が計数貨幣であったのに対し、銀貨は、匁(もんめ=3.75g)という重さの単位で価値を示す「秤量貨幣」であり、まったく性質の違う貨幣となっていました。江戸時代初期の銀貨である丁銀・豆板銀は秤で計って使っていたのです。

 徳川家康は貨幣の統一に際し、当初は金貨を主体に流通させようとしたのですが、西日本では中国との貿易などに際し銀が決済手段として長らく利用されており、いわゆる銀遣いがすでに支配的となっていたため、幕府としても追認せざるをえなかった面があります。この反面、東日本では金が決済手段として用いられていたことで「東の金遣い、西の銀遣い」とも呼ばれました。このため、大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期などにより相場が変化する変動相場となっていました。

 金貨や銀貨に35年ほど遅れて1636年(寛永13年)に「寛永通宝」と呼ばれる銅銭が発行されました。銅銭は庶民の生活に主に使われる補助貨幣といった位置づけとなっており、銅銭の発行は後回しとなったのです。

 このように江戸時代の貨幣体系は三貨制と呼ばれ、金貨、銀貨、銭貨が基本通貨として機能し、特に江戸においては金銀銭貨という三貨すべてが価値基準および交換手段に用いられていたのです。三貨制は世界の金融の歴史においても独特の形式であったと言えます。ただし、供給面での制約もあって、三貨が全国に普及するには時間もかかり、広く交換手段として利用されるようになったのは1660年代になってからです。


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by nihonkokusai | 2011-10-25 18:09 | 金融の歴史 | Comments(0)
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