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カテゴリ:金融の歴史( 58 )

日本の通貨単位を「円」とした意外な人物とは

金融取引に使われるのはお金であり、我々が使っているそのお金の単位は言うまでもなく「円」である。その円が生まれたのは明治時代であった。明治政権が目指したのは、西洋諸国に対抗するため、産業や資本主義の育成を行い国家の近代化を進めることであった。この積極的な殖産興業政策を行うため、さらに日本が独立国家として世界から認知されるためにも、統一した貨幣制度は必要不可欠なものとなる。

明治政府は1868年に純正画一な貨幣を製造することを決定し、1969年に大隈重信の建議により、新貨幣は十進法によるものとし、その価名を「円」とすることを決定した。大隈重信はその建議の中で、「第一に外国貨幣が円形で携帯に便利であり、この際旧来の方形を円形に改むべきである、第二に両分朱は四進法のため計算上非常に不便であるから、各国にならって十進法とすべきである」としたそうである。(早稲田大学のホームページより)。

現在の1万円札には、大隈の設立した早稲田大学のライバルとも言える慶応義塾の創始者である福沢諭吉の肖像が使われているのも何か「円」ではなく「縁」も感じる。

1871年には、最初の貨幣法である新貨幣条例が公布され、日本の貨幣の単位として円が正式に採用された、これによって近代的な貨幣の枠組みは整ったのである。

しかし、新貨幣の鋳造は進まず、明治政府は緊急の必要に応じるため「太政官札」、「民部省札」などと呼ばれた、いわゆる不換紙幣を発行した。金銀貨による幣制の統一を目指していたものの、貨幣素材の不足や造幣能力の不十分さもあって、金銀貨の鋳造はなかなか進まなかったのである。この金銀貨に代わる支払手段として、このような不換紙幣の発行に依存せざるを得なかった。これが結果として日本での中央銀行である日本銀行の設立の要因となった。

円は上記のように明治政府により1871年に定められた。英米人の影響で「en」ではなく「yen」と綴られることとなった円を、ドルの習慣に合わせてその頭文字Yに同様の二重線を入れたものが円マークの「¥」となり、JPYとも表記される。「円」の名前の由来としては、新貨のかたちが円形に統一されたためとか、洋銀の中国別称である「洋円」を継承したため、さらに香港銀貨と同品位、同重量の銀貨を製造することとした関係から香港銀貨の「壱圓」(洋円1個の意味)にちなむといった説がある。また、人々がお金を表すときに人差し指と親指で円を作ったところから、この名がついたという説もあった。

なお、中国では本来の通貨単位である「圓」を「元」に代替したが記号は日本の円記号と同じである。 韓国・北朝鮮の「ウォン」も「円」の朝鮮語読みである。


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by nihonkokusai | 2017-05-21 09:28 | 金融の歴史 | Comments(0)

日本の弥生時代に貨幣が存在していた?

神戸新聞によると、紀元14~40年にかけて中国古代国家の「新」「後漢」で鋳造されたとされる貨幣「貨泉」3枚が、兵庫県南あわじ市八木入田の入田稲荷前遺跡で見つかったそうである。弥生時代に日本へ流入したとみられ、一度に出土した数量としては全国で3番目の規模となるとか。

弥生時代にすでに中国の通貨が日本に存在していたという事実にまず驚いた。この記事によると貨泉は九州や近畿、瀬戸内海沿岸などの遺跡ですでに計約180枚が見つかっていたそうである。今回の発見で神戸市の市教委は「海上交通の要衝だった淡路島が弥生時代の流通で果たした役割を考える上で重要な史料」とコメントしている。弥生時代にはすでに中国との交易が盛んであったとか。ただし、弥生時代は物品貨幣の社会で、実用の貨幣だったとは考えがたく、交易拠点にもたらされた小型青銅器の一つではないかとの専門家のコメントも記事に掲載されていた。

しかし、貨幣という存在そのものがすでに弥生時代に中国からもたらされていたことには驚きであった。ただし、世界史を見るとその時代には各地で貨幣は流通していたことも事実である。

世界における最初の鋳造貨幣は、紀元前7世紀ごろに現在のトルコ西部に位置するリディアで発行されたエレクトロン貨とされている。紀元前6世紀頃のギリシア期において、貨幣使用を中心とした貨幣経済化が進む。ローマでは紀元前46年頃にカエサルのもとで行なわれた鋳造策などによって、貨幣体制は整ってきた。

中国の最初の鋳造貨幣は、春秋戦国時代に作られた貝貨のような形をした蟻鼻銭(ぎびせん)と言われている。紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝は、秦で用いられていた環銭の形に銭貨を統一し、すでに発行されていた「半両銭」という円形方孔貨に統一された。

そして貨泉は前漢と後漢の間にあった新(紀元8年~23年)の時代の貨幣であり、鋳造期間が短かったこともあり、一緒に出土した土器などの年代をはかるキーとなっているそうである。

たしかに出土された貨泉の枚数は少なく、貨泉が通貨として使われた可能性は少ないかもしれない。しかし、通貨という認識はすでに当時からあった可能性がある。どうも我々というか私が勝手に抱いていた弥生時代のイメージと実際とはかなりギャップがあるような気がする。ちなみに日本で貨幣が生まれたのは下記のような経緯からとされている。

金銀などの貴金属を貨幣として利用するに際には、地金などよりも一定の重量に鋳られた固まりのほうが便利となる。飛鳥板蓋宮伝承地など7世紀後半の飛鳥時代を代表する遺跡のなかから「無文銀銭」と称される小孔が穿たれただけの銀製の小円板が出土している。この無文銀銭も和同開珎の銀銭1枚と同等の価値を有する「貨幣」ではないかとみられている。

708年の和銅元年に日本最初の「公鋳貨幣」として「和同開珎」が律令制府により鋳造された。701年に「大宝律令」が完成し、平城京への遷都の準備中でもあった矢先、現在の関東地方の武蔵国秩父郡で和銅が発見された。遷都などで大量の資金が必要としていた政府は、中国などに習って貨幣発行の準備していたところでもあり、政府は年号まで「和銅」と改元して、わが国最初の公鋳貨幣を発行したのである。和同開珎は唐の時代に発行された「開元通宝」がモデルとされているが「開元通宝」は、始皇帝が銭貨を統一する際から中国で用いられた円形方孔貨となっていた。

和同銅銭には1個1文の価値が付され、江戸時代末までの約1200年間にわたってわが国貨幣制度のなかで重要な役割を果たした銭貨の基礎がこれによって構築された。

和同開珎以前に存在した貨幣として上記の「無文銀銭」と共に「富本銭」が知られているが、「和同開珎」が広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣として認識されている。「和同開珎」は畿内とその周辺では貨幣として使われたようだが、地方では富と権力を象徴する宝物としてしか使われなかったとされている。


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by nihonkokusai | 2017-05-20 08:36 | 金融の歴史 | Comments(0)

手形の歴史と五代友厚

 手形とは、将来の特定の日に特定の金額を支払う旨を約束した有価証券です。元々は、土地の売買などに絡んだ法律的な文書や宗教的な文書である原文に押されていた文字通りの「手形」でした。その後、証文の印としての「手形」を押す習慣はなくなりましたが、手形が押されていた証文などを指す言葉として「手形」という用語が残ったのです。

 現在のような手形制度は、中世に地中海沿岸の都市で発達した両替商が発行した手形に始まるとされていますが、日本でも鎌倉時代にはすでに、割符屋を通じて、金銭を割符と呼ばれる手形で決済をする取引も行われました。江戸時代には特に大阪(大坂)を中心に手形で決済をする慣習ができ上がっていました。幕府による大阪の御金蔵から江戸への公金輸送や、諸大名の大阪の蔵屋敷から江戸の大名屋敷の送金などにも手形が使われていたそうです。

 明治に入り、明治維新の波を受け大阪の両替商などは銀主体の商取引の廃止と、藩債の整理などにより大きな影響を受けました。朝の連続ドラマ「あさが来た」のあさの嫁ぎ先である両替商は、炭鉱の収益で何とか商売を続けられている様子がうかがえます。ここにしばしば登場しているのが五代友厚です。五代は大阪の経済が維新後に低迷していたことで、大阪経済の復活を願って、財界指導者の有志らと大阪商法会議所(のちの大阪商工会議所)設立に尽力していたのです。その大阪の商取引で使われていたのが信用に基づいた手形取引でした。

 明治時代に入り、近代的な銀行制度の導入を目指していた明治政府は、それまでの伝統的な取引慣行に代えて、欧米流の商業手形取引の活発化が課題となりました。資金決済のために期間2~3か月の商業手形を振出すという欧米流の手形取引はほとんど行われていなかったのです。

 この手形市場の育成に大きく関わっていたのが、大阪商法会議所の初代会頭であった五代友厚です。ただし、欧米流の商業手形取引の導入を試みようとしていた渋沢栄一に対し、五代友厚は大阪での伝統的な手形取引を復興させようとしていたのです。

 明治政府は各種の商業手形取引の振興策を実施し、欧米の手形制度を取り入れるとともに、江戸時代からの手形制度と融合しながら、1877年以降に大阪を中心として手形取引は次第に活発化してきました。

 手形の取引量の増大とともに取り立てなどのコストの大きさが強く認識されるようになり、この手形取立てコストの削減を目的に手形交換制度が設立されました。手形を同一地域内の金融機関が持ち寄って交換することによって、相互の貸し借りを相殺する仕組みが手形交換制度です。1879年に大阪手形交換所が、1887年に東京手形交換所が開かれたのです。

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by nihonkokusai | 2015-12-10 09:49 | 金融の歴史 | Comments(0)

銀行の誕生とその発達

 銀行というシステムの誕生とその後の発達が、経済社会システムの近代化に果たした役割は大きかったと言われます。中世ヨーロッパの経済は、封建社会であり土地所有が基礎となっていました。このため、銀行業の発達によって、富の源泉を土地所有以外の財やサービスの供給に求めることを可能としたのです。つまり、銀行業の発達は近代市民社会を築く礎にもなったといえます。

 さらに、貿易の拡大によって富が蓄積され、そのお金が再度運用されるなど、金融の仕組みが徐々に整ってきました。ヨーロッパの歴史における銀行業の発達は、膨大な国家の債務管理と産業革命によってさらに促されることとなります。

 ヨーロッパでは17~18世紀の相次ぐ戦乱によって、いずれの国も財政赤字が慢性化していました。それまでの国家財政の赤字は、保有している土地の売却や、没収、さらに商人たちへの債務不履行といった手段で補っていました。しかし、国債の発行やそれを引受ける中央銀行が設立された英国のように、戦費の調達や送金を迅速に行うための国家による新たな資金調達手段が生み出されました。

 国家の信用に重きが置かれ、さらに現在の国債管理政策のような国家債務の管理などの必要性が高まってきたのです。商工業の近代化によって、貨幣や信用制度を国家規模で整備する必要性も出てきました。

 18~19世紀にはイギリスの産業革命などによって、既存勢力であった地主や貴族に加えて、商人や金融業者がその存在感を強めてきました。力をつけた市民層に対して、増大する財やサービスの取引に見合った金融サービスが提供されるようになってきたのです。こうした状況下、個人銀行家ではなく、公的な性格を持つ銀行が設立されるようになりました。預金の受入れや為替手形の引受け、銀行口座間での資金や債権の振替を行う近代的な銀行の必要性が高まったためです。

 そのひとつが、17世紀初頭のオランダに設立されたアムステルダム振替銀行です。個人の金貸しといった高利の金融を追放することで、貨幣の混乱を抑え、さらに商業発展のために資金を必要とする人々への資金供給を目的とし、結果として資金決済の安定に寄与することとなりました。信用に裏付けられた支払い手段が構築されることで、商業や流通を拡大させる基盤ともなったのです。

 また、国家債務の管理によって業容を拡大した銀行は株式会社組織へ形態を変化させ、支店制度の発展によって業容を拡大しました。不特定多数の投資家のお金を集めて投資するマーチャント・バンクと呼ばれる銀行形態も誕生し、イギリスの産業革命に伴う大規模な鉄道等のインフラの整備などにも携わるようになったのです。こういった銀行の発達とともに、銀行の銀行たる中央銀行というシステムも確立されたのです。

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by nihonkokusai | 2015-12-06 11:10 | 金融の歴史 | Comments(0)

五代友厚が設立した証券取引所

 大阪取引所の見学者が急増しているそうである。大阪取引所には連続テレビ小説「あさが来た」の登場人物である五代友厚の銅像がエントランス前に立っており、ギャラリーには五代が署名した設立趣意書なども展示されており、このあたりが女性ファンのお目当てとなっているようである(産経新聞の記事より一部引用)。

 なぜここに五代友厚の像があるのかといえば、五代は堂島米会所を復興するとともに、株式取引所条例の成立を受けて、自ら大阪証券取引所の前身である大阪株式取引所の発起人となり、その設立に尽力したためである(大阪取引所のサイトより一部引用)

 そもそも証券取引所とは何か。ここは主に株式や債券など証券の売買取引を行うための場所であり、資本主義経済における中心的な役割を果たしている。証券取引所は、投資家や証券会社自身の株式などの売買注文を市場に集中させることにより、大量の取引を可能にさせ、市場の流動性を高めるとともに、公正な価格形成を図るということが可能となっている。投資家は証券取引所で自らが直接取引を行うことはできない。会員である証券会社を通じて取引を行わなければならない。証券取引所における取引においては、大量の売買注文を公正かつ円滑に執行するために、取引時間、値段を指定する方法、取引単位、決済方法などについての細かな規定が定められている。また、売買は基本的に競争売買によって行われている。

 この取引所の起源は意外と古い。欧州では金融・貿易の一大拠点として繁栄したブリュージュに変わり、アントワープがヨーロッパの商業拠点となり、喜望峰周りのインド航路の発見によりその繁栄は支えられた。このアントワープ(アントウェルペン)に1531年、現在のようなかたちの証券取引所が歴史上初めて設立されたとされる。

 ブリュージュにおける手形の取引所をモデルにしてつくられたとされるアントウェルペン取引所では、手形や商品などの取引が行なわれていた。ここでは現金による決済以外にすでに商品のオプション取引に対する契約も扱っていた。このオプションは現在のデリバティブ取引と同様に、ヘッジとともに投機としても使われた。さらに債券を取引する第二市場も現れたのである。

 アントウェルペン取引所の銘板には「国籍と言語の如何を問わず、すべての商人に役立てるために」とあるそうで、交易の自由が保証され、イギリスやポルトガルなどヨーロッパ各国が商館や駐在員を配置し、資金調達などを行っていた。またアントウェルペンでは「アントウェルペン慣習法集成」という商法も制定され、この商法がオランダの東インド会社の設立に大きな影響を与えたと言われている。また、アントワープでは船舶の売買に加え海上保険といった取引も盛んに行われ、ヨーロッパ最大の商業・金融の中心地となっていった。

 アントウェルペン取引所の取引で一躍有名になった人物がいる。それが「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉でも有名なトーマス・グレシャムである。グレシャムはイギリス王室から海外負債管理の任務を託され、アントウェルペンに派遣された。アントウェルペン取引所において商才というか相場師の才能を発揮し、スペイン金の投機で成功し、イギリスの海外負債の大部分を清算したそうである。その結果、1559年にはエリザベス1世からナイトの称号を与えられた。

 アントウェルペン取引所の運営に目をつけたグレシャム卿は、ロンドンに戻ってから同様の取引所を設立し、それが王立取引所と改称され、イギリスにおける取引所の始まりになる。

 世界最初の取引所といわれている16世紀のアントウェルペン取引所では、すでにオプション取引や先渡し取引が行われていたが、現在の形式での先物取引などのデリバティブ取引の原型となっていたのは、江戸時代の大阪堂島で行われた米の先物取引であった。それがルーツとなり、現在、大阪取引所では日経平均先物や債券先物などのデリバティブ取引を主に取り扱っている。

 1874年に株式取引条例が制定された。1878年5月に渋沢栄一らが東京株式取引所を設立したが、1878年6月に五代友厚が発起人となって設立したのが大阪株式取引所であった。

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by nihonkokusai | 2015-11-29 17:18 | 金融の歴史 | Comments(0)

あさが作った生命保険会社

 17世紀にハレー彗星の周期を計算したイギリスの天文学者エドモンド・ハレーは、年齢ごとに生存している人、死亡した人の割合をまとめ、人間の寿命を統計化した「生命表」を作成した。

 18世紀イギリスのロンドンで、生命表を元にした死亡率に基づいて保険料を集める生命保険会社が設立され、これが今の生命保険会社の起源となっている。

 日本の生命保険会社の始まりは、福澤諭吉の著書「西洋旅案内」で欧州の近代的な保険制度が紹介されたのがきっかけとされる。この附録において、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(損害保険)の3種の災難請合について説明がある。

 福澤諭吉に関わりのある早矢仕有的という人物が、横浜に丸屋商社を創業した。丸屋商社は創業の翌年に東京日本橋に店を開設したが、これが現在の丸善となる。明治7年に「丸屋商社」は社員の福利厚生のために「死亡請合規則」というものを定めた。

 この「死亡請合規則」によると、従業員は在職中に一定の金額を積み立てし、万一死亡した場合には、相応の金額を残された家族に給付する。その考え方は後に阿部泰蔵(元丸善役員)によって設立された明治生命(現在の明治安田生命)に継承された(丸善のサイトを参照)。

 福澤諭吉門下でもあった阿部泰蔵によって、1881年にわが国最初の近代的生命保険会社である明治生命が設立された。その後、帝国生命(現在の朝日生命)、日本生命が設立されたのである。

 明治生命、帝国生命、日本生命の3社の業績が順調に伸びたことで、各地で多くの生命保険が設立された。そのひとつに浄土真宗の門徒を対象にした真宗生命があった。しかし、経営に失敗し、門徒総代格であった広岡家が再建を託されたのである。真宗生命は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称されたが、なかなか経営はうまくいかなかった。

 広岡浅子は経営不振を脱するため、この朝日生命と北海生命、護国生命と合併する構想を描き、その結果、1902年に誕生したのが大同生命である。社名は「小異を捨てて大同につく」という故事にのっとって選ばれたそうである。

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by nihonkokusai | 2015-11-20 09:37 | 金融の歴史 | Comments(0)

あさが作った銀行

 NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」のモデルとなっている広岡浅子は銀行設立にも携わった。

 明治政府は1868年に純正画一な貨幣を製造することを決定し、1869年の大隈重信の建議により、新貨幣は十進法によるものとし、その価名を「円」とすることを決定した。1871年には、最初の貨幣法である新貨幣条例が公布された。日本の貨幣の単位として円が正式に採用されたのである。これによって、近代的な貨幣制度の枠組みが整った。

 しかし、新貨幣の鋳造は進まず、明治政府は緊急の必要に応じるため「太政官札」「民部省札」などの、いわゆる不換紙幣を発行した。金銀貨による幣制の統一を目指していたものの、貨幣素材の不足や造幣能力の不十分さもあって、金銀貨の鋳造はなかなか進まなかった。その結果、金銀貨に代わる支払手段として不換紙幣の発行に依存せざるを得なかったのである。

 銀行の設立も明治政府にとっては大きな課題となる。民間からも銀行設立の願いが相次いだ。しかし、政府内ではこの銀行設立を巡って、米国のナショナルバンク制度をモデルにした地方分散型の発券銀行制度を主張した伊藤博文と、イングランド銀行をモデルにした中央銀行制度を主張した吉田清成の間で銀行論争が起こっていた。

 結果的には伊藤案が採用され、国立銀行条例が発布された。外国でバンクと呼ばれていた金融機関を日本語の「銀行」に翻訳したのは渋沢栄一とされるが、実際には渋沢が「金行」を提案したものの、三井の三野村利左衛門が「交換には銀も含む」として「銀行」となったとの説もある。国立銀行といっても、ナショナルバンクを日本語に直したものであり、これは国営ではない。あくまで国立銀行条例に基づき設立された銀行券を発券できる民間の銀行である。当初は銀行券の発行条件が厳しかったことなどから、設立されたのは第一国立銀行など4行だけとなった。

 その第一番目の第一国立銀行は、三井、小野両組が井上馨と渋沢栄一の勧めで、共同出資に踏み切って設立したとされる。本来は新貨幣為替ご用のお役目を受けていた三井が単独で銀行を設立しようとしていたが、ひとつの財閥が独走するのは望ましくないとして、渋沢栄一が三井、小野両組の共同出資に持っていったようである(小説「土佐堀川 広岡浅子の生涯」より一部引用)

 1876年に「国立銀行条例」は改正され、金貨との交換義務が廃止され、銀行券の発行限度も拡充された結果、全国的に銀行設立ブームが起こり、153行もの国立銀行が誕生した。また、民営銀行が設立される機運が高まり、特に浅子の実家の三井家は単独で私立の銀行を設立することになる。1876年に日本初の民間銀行である三井銀行が開業した。

 1882年に日本銀行が設立され、国立銀行が発行した紙幣は、1883年の国立銀行条例の改正により兌換銀行券である日本銀行券に置きかえられた。1899年には政府紙幣とともに通用停止となり、日本における流通紙幣は日銀券に統一された。これらを受けて国立銀行は普通銀行に転換した。

 実家の三井の動きに触発されて、広岡浅子も銀行の創立を目指し、渋沢栄一のアドバイスをもらって1888年に開店したのが加島銀行である。

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by nihonkokusai | 2015-11-14 11:43 | 金融の歴史 | Comments(0)

あさが来たに出てくる両替商とは

 朝の連続ドラマの「あさが来た」の「あさ」が嫁いだ先の両替屋(両替商)とは現在の銀行のような役割をしていた。この両替商がどのような過程で生まれ、どのような業務をしていたのであろうか。

 天下統一を果たした徳川家康は全国支配を確固なものにするため貨幣の統一に着手した。当初は金貨を主体に流通させようとしたが、西日本では中国との貿易などに際し、銀が決済手段として長らく利用されており、いわゆる「銀遣い」がすでに支配的となっていたため、幕府としても追認せざるをえなかった。東日本では金が決済手段として用いられていたことで「東の金遣い、西の銀遣い」とも呼ばれた。このため、大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期などにより相場が変化する変動相場となっていた。

 金貨や銀貨に35年ほど遅れて1636年(寛永13年)に「寛永通宝」と呼ばれる銅銭が発行された。銅銭は庶民の生活に主に使われる補助貨幣といった位置づけとなっており、銅銭の発行は後回しとなった。

 このように江戸時代の貨幣体系は三貨制と呼ばれ、金貨、銀貨、銭貨が基本通貨として機能し、特に江戸においては金銀銭貨という三貨すべてが価値基準および交換手段に用いられていた。三貨制は世界の金融の歴史においても独特の形式であったとされる。

 両替商はこの金銀銭貨の交換ニーズを背景として登場した。両替とは「両」つまり主に東日本で使われた計数貨幣である「金」を、西日本で使われていた秤量貨幣である「銀」、もしくは小額の計数貨幣である「銭」と替えるという言葉からきている。

 さらに大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期などにより相場が変化する変動相場となっていたことで、手数料を取って両替をするという仕事が生まれた。これが鴻池(こうのいけ)や三井、住友を代表とする両替商(両替屋)である。

 両替のためには基準になる相場を決めなければならず、両替屋の大手が集まりその日の経済動向を読みながら相場を立てていた。この相場は大きな資金を動かす政府である幕府にも報告された。

 天下の台所と呼ばれた大坂では、全国各地の諸産物が集まり売買されていた。取引の多くは通帳などに基づき信用で売買された後に、商品ごとに定められた期日に代金が支払われた。この決済手段に使われたのが、銀目手形と呼ばれた手形である。このように大坂の商人は、可能な限り現金銀の取り交わしを避け、現金銀を両替商に預け入れ、手形によって決済するといった慣習が出来上がる。

 両替商はこの銀目手形(決済手段として利用された手形)の引き受け・決済や資金融通を通じ、大坂で発展した。さらに両替商は業務を広げ、商人や大名、そして幕府などを取引相手に、預金の受け入れ、手形の発行や決済、加えて、貸し付けや為替取引など各種の金融業務を広く営むようになる。このように両替商は現在の銀行業務に近い金融機関としての役割を担っていた。特に手形の決済制度などは、同時期の欧州など諸外国の金融システムに比べても、かなり発達したものとなっていた。この信用制度の確立により、さらに大坂での商業活動が活発化したのである。

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by nihonkokusai | 2015-11-05 09:27 | 金融の歴史 | Comments(0)

朝ドラに見る明治維新と金融

 NHKの朝のテレビ小説「あさが来た」が面白い。主人公のモデルは廣岡浅子という実在の人物であり、豪商三井家(のちに三井財閥となる三井家のひとつ)に生まれ、鉱山や銀行の経営に関わり、大同生命や日本女子大の設立に関わった人物である。

 浅子が嫁いだ先が大阪の豪商加島屋。加島屋は諸藩の蔵元・掛屋(米方両替)になり、大名貸で鴻池家と並び称された。この加島屋は普通の両替商ではなく、米相場の投資資金の供給も行っていた。

 大阪の米の取引といえば堂島である。着地取引として米の廻着を待たずに米切手が先売りされるようになり、米切手の保有している商人は米の価格変動リスクにさらされ、この米価の価格変動リスクのヘッジを目的として「売買つなぎ商い」という先物取引が考案された。この「つなぎ商い」が1730年に徳川幕府により公認され、堂島米会所が成立したのである。現在の金融先物取引の原型がここで形作られた。その米相場の清算機関(クリアリングハウス)のひとつが加島屋であった。

 そして加島屋のもうひとつの仕事が大名貸しであった。全国の諸藩は大坂の蔵屋敷を通じて年貢米のほか特産物を売却し、その資金で必要な物資を購入していた。蔵屋敷ではこれらの売買業務を商人に委託しており、産物の搬入や保管の業務は蔵元と呼ばれたのに対し、売上代金の回収や為替の取り組みなど金融に関する業務は掛屋と呼ばれ、大手の両替商が行っていた。

 諸藩の財政は主に米で成り立っていたが、年貢米の売却による収入が秋から冬に集中するのに対し、諸費用の支払いは毎月あることで、収入と支出に期間のズレが生じる。この季節的な収支不足調整のためのつなぎ資金を供与したのが、掛屋と呼ばれた加島屋などの両替商であり、この一時的な資金の貸付が「大名貸し」と呼ばれたのである。

 江戸時代後期になると、大名の財政はより深刻化し、幕府も江戸時代には江戸や大阪の商人から半ば強制的に御用金と呼ばれるものを徴収していた。これが明治維新によって貸付金は返済されず、証文は紙切れ同然となる。加島屋も深刻な状況となり、この窮地を救ったのが、「あさ」こと廣岡浅子である。

 このような、幕末から明治にかけての金融の大きな変化をNHKの朝ドラでみることができる。これはなかなか貴重なものと言えるのではなかろうか。

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by nihonkokusai | 2015-11-02 09:36 | 金融の歴史 | Comments(0)

中国が金利自由化、日本は30年前あたりから

 中国人民銀行は10月23日に、銀行が預金金利を決める際の上限金利を撤廃し、銀行金利を原則自由化すると発表した。すでに貸出金利の下限規制は撤廃しているため、制度上は銀行の裁量で金利水準を自由に決めることができる。これは人民元がIMFの特別引き出し権(SDR)と呼ばれる準備通貨に早期に採用されるよう、金融自由化に向けた取り組みを強化することが大きな狙いとされる(日本経済新聞)。

 特別引出権(SDR)とは、加盟国の準備資産を補完する手段として、IMFが1969年に創設した国際準備資産である。SDRの価値は主要4大国・地域(ユーロ、日本円、 スターリング・ポンド、及び米ドル)の国際通貨バスケットに基づいて決められ、自由利用可能通貨との交換が可能。2015年3月17日時点で2040億SDRが加盟国に配分されている(IMFのサイトより)。

 中国政府は人民元の国際化を目指し、IMFが設定している特別引き出し権(SDR)の構成通貨に人民元を採用するように要請している。今回の金融自由化に向けた取り組みはその一環とみられる。

 それでは日本の金利の自由化が始まったのはいつのことであったろうか。2015年10月21日は1989年に公開された「バック・トゥ・ザ・フューチャー 2」で、主人公マーティがタイム・トリップした1985年から30年後のその日であった。1985年はプラザ合意があり、債券先物も上場された年であったが、この年に日本では金利が市場の実勢で決められる大口定期預金が導入されていた。日米円ドル委員会作業部会報告書に基づいて、円の一層の国際化を含む新しい金利自由化の指針が1984年に提示された。1970年代後半から金利自由化が推進されていたが、これをきっかけに一連の金利の自由化が促進された。その後、1994年10月に民間銀行の金利は完全に自由化された。

 いまから30年前の日本は現在の中国といろいろな面で共通点があるとの指摘もある。日本では1964年に海外旅行が自由化され、高度経済成長期を迎えた1985年頃には日本からも大量の観光客が海外に出かけていった。中国では1997年に観光目的の海外団体旅行が解禁され、現在では中国からの多くの観光客が日本に押しかけている。30年前頃に日本が国際化を強めていたように、現在の中国も国際化を推し進めようとしていると言える。

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by nihonkokusai | 2015-10-24 11:35 | 金融の歴史 | Comments(0)
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