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カテゴリ:金融の歴史( 60 )

チューリップバブルと類似するビットコイン

 欧州中央銀行(ECB)のコンスタンシオ副総裁(ポルトガル出身)は、17世紀に発生したチューリップバブルを引き合いに出し、「ビットコインはチューリップのようなものだと言える。数日間で40%、50%上げ下げするものに賭けたい人のための投機手段だが、通貨でないことは確実だ。中央銀行や金融政策への脅威になるとは見ていないことは確かだ」と述べた(ブルームバーグ)。

 現在のビットコインの状況をみるとコインという名称は付いているものの、通貨としての利用というよりは、一部の人達による投機的な利用が主体のように思われ、チューリップバブルをイメージするというのは適切ではなかろうか。それでは17世紀にオランダで起きたチューリップバブルとはどのようなものであったのか、振り返ってみたい。

 17世紀はじめのオランダは、商人が世界各地に進出し、ヨーロッパで最も経済が発達した国となった。所得水準がヨーロッパで最高となり、消費や投資が活発化した。株式会社に加え、銀行、複式簿記、為替手形、そして証券市場などが発達し商業資本主義の基礎を築き上げた。

 世界最初の中央銀行はスウェーデンのリクスバンクと言われているが、1609年に市の条例で設立されたアムステルダム振替銀行ではないかとの見方もある。預金には金利はつかず、保有する金の範囲でしか紙幣を発行せず、融資はほとんど行わなかった。こうしたアムステルダム振替銀行の高い信用などを背景に外国為替の割引が活発に行われ、これによりアムステルダムが国際的な取引で支配的な地位を確立したのである。

 1530年に設立されたアムステルダム取引所では商品、為替、株式、債券そして海上保険などあらゆる種類の金融商品や金融サービスが売買されていた。取引の主流は先物取引となり、穀物や香料、砂糖や銅、硝石などの先物取引が行われていた。

 オランダでは、その地形や気候により花の栽培に適しており、特に好まれたのがチューリップ栽培であった。オスマン・トルコからチューリップが持ち込まれた当初は、貴族や商人など一部の収集家だけで取引されていたが、1634年あたりから一般個人も値上がり益を狙って、チューリップ市場に参入するようになった。

 珍しい品種が高値で取引されるようになり、1636年から1637年にかけて投機熱は最高潮に達した。居酒屋などで行われた先物取引などが主体となり、次第に実態のない取引が行われるようになる。珍しい球根は家一件分といったように、すでに価格は現実からかけ離れたものとなり、貴重品種以外の品種も高値で取引されるようになった。

 1637年2月にチューリップ市場は突然暴落した。暴落の理由らしい理由はなかったものの、春になると受け渡しの期日が来ることで、その前に売ろうとしたところ、買いが入らず、売りが売りを呼ぶ展開となったのではないかといわれる。先物の決済が行われず、債務不履行が次々に起こる。混乱が収まったのはやっと政府が乗り出した1638年5月である。

 数千人規模で支払いきれない債務者がいたといわれたオランダのチューリップバブルであるが(バブルという言葉そのものはのちの南海バブルから)、そのバブル崩壊による実態経済への影響はほとんどなかったといわれている。このためチューリップの熱狂が本当にあったのかどうか疑問視する見方もあるが、これをきっかにオランダのチューリップが世界的に広く認識され、オランダでの花き産業が発達していったことも事実である。


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by nihonkokusai | 2017-12-05 09:37 | 金融の歴史 | Comments(0)

アジア通貨危機や山一破綻から20年、当時何が起きたのか

 日銀の黒田総裁は「通貨危機から20年、これからの20年」と題する講演をアジア証券人フォーラム年次総会で行っていた。今年はアジアの通貨危機から20年目となる。

 また、1997年11月24日に山一証券が経営に行き詰まり、自主廃業に追い込まれた。こちらも20年目となる。いったい1997年には何が起きていたのか。当時の状況を振り返ってみたい。

 1997年4月に減税の財源として消費税の引き上げが実施された。財政構造改革と、この消費税の導入がその後の景気後退の要因とも指摘されたが、実際にはバブルの後遺症ともいえる不良債権処理の遅れがその大きな要因となった。

 企業の破綻が相次ぎ、7月4日に東海興業、7月30日に多田建設、8月19日大都工業、9月18日ヤオハンが会社更正法の適用申請を行った。11月に入ると金融システム不安が一気に表面化し、3日に三洋証券が会社更正法適用を申請、17日には北海道拓殖銀行が経営破綻し北洋銀行への営業譲渡を発表した。さらに24日には山一證券が自主廃業を届け出、26日には徳陽シティ銀行が分割譲渡と金融機関が相次いで破綻したのである。

 三洋証券の破綻の際に、コール市場での小規模なデフォルトが発生した。金融機関同士で取引しているコール市場という信用の上で成立している金融市場の中で、戦後初のデフォルトが起き、これが他の金融機関破綻の引き金となったのである。信用リスクと流動性リスクの増大により、金融システム不安が一気に高まった。

 日本の景気悪化によって進行した円安と米国の強いドル政策が、ドルと自国通貨の為替レートを固定するドルペッグ制を採用していたアジア各国に悪影響をもたらしていた。1997年5月にタイの通貨バーツの暴落を皮切りに、アジアの新興諸国の通貨が連鎖的に暴落し、東アジア全域の経済が大混乱に陥る。

 1990年代に入り外為取引の自由化が実施され、資金の移動が活発化した。米ドルと連動相場制(ドルペッグ制)を採用していたこれら通貨は、ドルが低位で安定していた際には高金利政策で資金を流入させていたものの、1995年以降のアメリカによる強いドル政策により、ドル・ペッグ制を採用していたアジア諸国の通貨も上昇し、通貨高により輸出が伸び悩むなど経済への影響も出てきた。この通貨高と景気悪化というギャップに目をつけたジョージ・ソロスのクオンタム・ファンドなどのヘッジファンドにタイ・バーツなどの通貨が狙い撃ちにされ、この仕掛け的な売りに耐えられなくなり、アジア諸国の通貨が暴落したのである。

 これを受けて東アジア各国の株は急落し、成長率は軒並みマイナスとなり、企業倒産や失業が急増した。これに対しIMFを中心とした国際金融支援が特に経済に大きな打撃を受けたタイ、インドネシア、韓国に対して実施されたのである。


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by nihonkokusai | 2017-11-29 08:53 | 金融の歴史 | Comments(0)

日本の通貨単位を「円」とした意外な人物とは

金融取引に使われるのはお金であり、我々が使っているそのお金の単位は言うまでもなく「円」である。その円が生まれたのは明治時代であった。明治政権が目指したのは、西洋諸国に対抗するため、産業や資本主義の育成を行い国家の近代化を進めることであった。この積極的な殖産興業政策を行うため、さらに日本が独立国家として世界から認知されるためにも、統一した貨幣制度は必要不可欠なものとなる。

明治政府は1868年に純正画一な貨幣を製造することを決定し、1969年に大隈重信の建議により、新貨幣は十進法によるものとし、その価名を「円」とすることを決定した。大隈重信はその建議の中で、「第一に外国貨幣が円形で携帯に便利であり、この際旧来の方形を円形に改むべきである、第二に両分朱は四進法のため計算上非常に不便であるから、各国にならって十進法とすべきである」としたそうである。(早稲田大学のホームページより)。

現在の1万円札には、大隈の設立した早稲田大学のライバルとも言える慶応義塾の創始者である福沢諭吉の肖像が使われているのも何か「円」ではなく「縁」も感じる。

1871年には、最初の貨幣法である新貨幣条例が公布され、日本の貨幣の単位として円が正式に採用された、これによって近代的な貨幣の枠組みは整ったのである。

しかし、新貨幣の鋳造は進まず、明治政府は緊急の必要に応じるため「太政官札」、「民部省札」などと呼ばれた、いわゆる不換紙幣を発行した。金銀貨による幣制の統一を目指していたものの、貨幣素材の不足や造幣能力の不十分さもあって、金銀貨の鋳造はなかなか進まなかったのである。この金銀貨に代わる支払手段として、このような不換紙幣の発行に依存せざるを得なかった。これが結果として日本での中央銀行である日本銀行の設立の要因となった。

円は上記のように明治政府により1871年に定められた。英米人の影響で「en」ではなく「yen」と綴られることとなった円を、ドルの習慣に合わせてその頭文字Yに同様の二重線を入れたものが円マークの「¥」となり、JPYとも表記される。「円」の名前の由来としては、新貨のかたちが円形に統一されたためとか、洋銀の中国別称である「洋円」を継承したため、さらに香港銀貨と同品位、同重量の銀貨を製造することとした関係から香港銀貨の「壱圓」(洋円1個の意味)にちなむといった説がある。また、人々がお金を表すときに人差し指と親指で円を作ったところから、この名がついたという説もあった。

なお、中国では本来の通貨単位である「圓」を「元」に代替したが記号は日本の円記号と同じである。 韓国・北朝鮮の「ウォン」も「円」の朝鮮語読みである。


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by nihonkokusai | 2017-05-21 09:28 | 金融の歴史 | Comments(0)

日本の弥生時代に貨幣が存在していた?

神戸新聞によると、紀元14~40年にかけて中国古代国家の「新」「後漢」で鋳造されたとされる貨幣「貨泉」3枚が、兵庫県南あわじ市八木入田の入田稲荷前遺跡で見つかったそうである。弥生時代に日本へ流入したとみられ、一度に出土した数量としては全国で3番目の規模となるとか。

弥生時代にすでに中国の通貨が日本に存在していたという事実にまず驚いた。この記事によると貨泉は九州や近畿、瀬戸内海沿岸などの遺跡ですでに計約180枚が見つかっていたそうである。今回の発見で神戸市の市教委は「海上交通の要衝だった淡路島が弥生時代の流通で果たした役割を考える上で重要な史料」とコメントしている。弥生時代にはすでに中国との交易が盛んであったとか。ただし、弥生時代は物品貨幣の社会で、実用の貨幣だったとは考えがたく、交易拠点にもたらされた小型青銅器の一つではないかとの専門家のコメントも記事に掲載されていた。

しかし、貨幣という存在そのものがすでに弥生時代に中国からもたらされていたことには驚きであった。ただし、世界史を見るとその時代には各地で貨幣は流通していたことも事実である。

世界における最初の鋳造貨幣は、紀元前7世紀ごろに現在のトルコ西部に位置するリディアで発行されたエレクトロン貨とされている。紀元前6世紀頃のギリシア期において、貨幣使用を中心とした貨幣経済化が進む。ローマでは紀元前46年頃にカエサルのもとで行なわれた鋳造策などによって、貨幣体制は整ってきた。

中国の最初の鋳造貨幣は、春秋戦国時代に作られた貝貨のような形をした蟻鼻銭(ぎびせん)と言われている。紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝は、秦で用いられていた環銭の形に銭貨を統一し、すでに発行されていた「半両銭」という円形方孔貨に統一された。

そして貨泉は前漢と後漢の間にあった新(紀元8年~23年)の時代の貨幣であり、鋳造期間が短かったこともあり、一緒に出土した土器などの年代をはかるキーとなっているそうである。

たしかに出土された貨泉の枚数は少なく、貨泉が通貨として使われた可能性は少ないかもしれない。しかし、通貨という認識はすでに当時からあった可能性がある。どうも我々というか私が勝手に抱いていた弥生時代のイメージと実際とはかなりギャップがあるような気がする。ちなみに日本で貨幣が生まれたのは下記のような経緯からとされている。

金銀などの貴金属を貨幣として利用するに際には、地金などよりも一定の重量に鋳られた固まりのほうが便利となる。飛鳥板蓋宮伝承地など7世紀後半の飛鳥時代を代表する遺跡のなかから「無文銀銭」と称される小孔が穿たれただけの銀製の小円板が出土している。この無文銀銭も和同開珎の銀銭1枚と同等の価値を有する「貨幣」ではないかとみられている。

708年の和銅元年に日本最初の「公鋳貨幣」として「和同開珎」が律令制府により鋳造された。701年に「大宝律令」が完成し、平城京への遷都の準備中でもあった矢先、現在の関東地方の武蔵国秩父郡で和銅が発見された。遷都などで大量の資金が必要としていた政府は、中国などに習って貨幣発行の準備していたところでもあり、政府は年号まで「和銅」と改元して、わが国最初の公鋳貨幣を発行したのである。和同開珎は唐の時代に発行された「開元通宝」がモデルとされているが「開元通宝」は、始皇帝が銭貨を統一する際から中国で用いられた円形方孔貨となっていた。

和同銅銭には1個1文の価値が付され、江戸時代末までの約1200年間にわたってわが国貨幣制度のなかで重要な役割を果たした銭貨の基礎がこれによって構築された。

和同開珎以前に存在した貨幣として上記の「無文銀銭」と共に「富本銭」が知られているが、「和同開珎」が広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣として認識されている。「和同開珎」は畿内とその周辺では貨幣として使われたようだが、地方では富と権力を象徴する宝物としてしか使われなかったとされている。


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by nihonkokusai | 2017-05-20 08:36 | 金融の歴史 | Comments(0)

手形の歴史と五代友厚

 手形とは、将来の特定の日に特定の金額を支払う旨を約束した有価証券です。元々は、土地の売買などに絡んだ法律的な文書や宗教的な文書である原文に押されていた文字通りの「手形」でした。その後、証文の印としての「手形」を押す習慣はなくなりましたが、手形が押されていた証文などを指す言葉として「手形」という用語が残ったのです。

 現在のような手形制度は、中世に地中海沿岸の都市で発達した両替商が発行した手形に始まるとされていますが、日本でも鎌倉時代にはすでに、割符屋を通じて、金銭を割符と呼ばれる手形で決済をする取引も行われました。江戸時代には特に大阪(大坂)を中心に手形で決済をする慣習ができ上がっていました。幕府による大阪の御金蔵から江戸への公金輸送や、諸大名の大阪の蔵屋敷から江戸の大名屋敷の送金などにも手形が使われていたそうです。

 明治に入り、明治維新の波を受け大阪の両替商などは銀主体の商取引の廃止と、藩債の整理などにより大きな影響を受けました。朝の連続ドラマ「あさが来た」のあさの嫁ぎ先である両替商は、炭鉱の収益で何とか商売を続けられている様子がうかがえます。ここにしばしば登場しているのが五代友厚です。五代は大阪の経済が維新後に低迷していたことで、大阪経済の復活を願って、財界指導者の有志らと大阪商法会議所(のちの大阪商工会議所)設立に尽力していたのです。その大阪の商取引で使われていたのが信用に基づいた手形取引でした。

 明治時代に入り、近代的な銀行制度の導入を目指していた明治政府は、それまでの伝統的な取引慣行に代えて、欧米流の商業手形取引の活発化が課題となりました。資金決済のために期間2~3か月の商業手形を振出すという欧米流の手形取引はほとんど行われていなかったのです。

 この手形市場の育成に大きく関わっていたのが、大阪商法会議所の初代会頭であった五代友厚です。ただし、欧米流の商業手形取引の導入を試みようとしていた渋沢栄一に対し、五代友厚は大阪での伝統的な手形取引を復興させようとしていたのです。

 明治政府は各種の商業手形取引の振興策を実施し、欧米の手形制度を取り入れるとともに、江戸時代からの手形制度と融合しながら、1877年以降に大阪を中心として手形取引は次第に活発化してきました。

 手形の取引量の増大とともに取り立てなどのコストの大きさが強く認識されるようになり、この手形取立てコストの削減を目的に手形交換制度が設立されました。手形を同一地域内の金融機関が持ち寄って交換することによって、相互の貸し借りを相殺する仕組みが手形交換制度です。1879年に大阪手形交換所が、1887年に東京手形交換所が開かれたのです。

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by nihonkokusai | 2015-12-10 09:49 | 金融の歴史 | Comments(0)

銀行の誕生とその発達

 銀行というシステムの誕生とその後の発達が、経済社会システムの近代化に果たした役割は大きかったと言われます。中世ヨーロッパの経済は、封建社会であり土地所有が基礎となっていました。このため、銀行業の発達によって、富の源泉を土地所有以外の財やサービスの供給に求めることを可能としたのです。つまり、銀行業の発達は近代市民社会を築く礎にもなったといえます。

 さらに、貿易の拡大によって富が蓄積され、そのお金が再度運用されるなど、金融の仕組みが徐々に整ってきました。ヨーロッパの歴史における銀行業の発達は、膨大な国家の債務管理と産業革命によってさらに促されることとなります。

 ヨーロッパでは17~18世紀の相次ぐ戦乱によって、いずれの国も財政赤字が慢性化していました。それまでの国家財政の赤字は、保有している土地の売却や、没収、さらに商人たちへの債務不履行といった手段で補っていました。しかし、国債の発行やそれを引受ける中央銀行が設立された英国のように、戦費の調達や送金を迅速に行うための国家による新たな資金調達手段が生み出されました。

 国家の信用に重きが置かれ、さらに現在の国債管理政策のような国家債務の管理などの必要性が高まってきたのです。商工業の近代化によって、貨幣や信用制度を国家規模で整備する必要性も出てきました。

 18~19世紀にはイギリスの産業革命などによって、既存勢力であった地主や貴族に加えて、商人や金融業者がその存在感を強めてきました。力をつけた市民層に対して、増大する財やサービスの取引に見合った金融サービスが提供されるようになってきたのです。こうした状況下、個人銀行家ではなく、公的な性格を持つ銀行が設立されるようになりました。預金の受入れや為替手形の引受け、銀行口座間での資金や債権の振替を行う近代的な銀行の必要性が高まったためです。

 そのひとつが、17世紀初頭のオランダに設立されたアムステルダム振替銀行です。個人の金貸しといった高利の金融を追放することで、貨幣の混乱を抑え、さらに商業発展のために資金を必要とする人々への資金供給を目的とし、結果として資金決済の安定に寄与することとなりました。信用に裏付けられた支払い手段が構築されることで、商業や流通を拡大させる基盤ともなったのです。

 また、国家債務の管理によって業容を拡大した銀行は株式会社組織へ形態を変化させ、支店制度の発展によって業容を拡大しました。不特定多数の投資家のお金を集めて投資するマーチャント・バンクと呼ばれる銀行形態も誕生し、イギリスの産業革命に伴う大規模な鉄道等のインフラの整備などにも携わるようになったのです。こういった銀行の発達とともに、銀行の銀行たる中央銀行というシステムも確立されたのです。

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by nihonkokusai | 2015-12-06 11:10 | 金融の歴史 | Comments(0)

五代友厚が設立した証券取引所

 大阪取引所の見学者が急増しているそうである。大阪取引所には連続テレビ小説「あさが来た」の登場人物である五代友厚の銅像がエントランス前に立っており、ギャラリーには五代が署名した設立趣意書なども展示されており、このあたりが女性ファンのお目当てとなっているようである(産経新聞の記事より一部引用)。

 なぜここに五代友厚の像があるのかといえば、五代は堂島米会所を復興するとともに、株式取引所条例の成立を受けて、自ら大阪証券取引所の前身である大阪株式取引所の発起人となり、その設立に尽力したためである(大阪取引所のサイトより一部引用)

 そもそも証券取引所とは何か。ここは主に株式や債券など証券の売買取引を行うための場所であり、資本主義経済における中心的な役割を果たしている。証券取引所は、投資家や証券会社自身の株式などの売買注文を市場に集中させることにより、大量の取引を可能にさせ、市場の流動性を高めるとともに、公正な価格形成を図るということが可能となっている。投資家は証券取引所で自らが直接取引を行うことはできない。会員である証券会社を通じて取引を行わなければならない。証券取引所における取引においては、大量の売買注文を公正かつ円滑に執行するために、取引時間、値段を指定する方法、取引単位、決済方法などについての細かな規定が定められている。また、売買は基本的に競争売買によって行われている。

 この取引所の起源は意外と古い。欧州では金融・貿易の一大拠点として繁栄したブリュージュに変わり、アントワープがヨーロッパの商業拠点となり、喜望峰周りのインド航路の発見によりその繁栄は支えられた。このアントワープ(アントウェルペン)に1531年、現在のようなかたちの証券取引所が歴史上初めて設立されたとされる。

 ブリュージュにおける手形の取引所をモデルにしてつくられたとされるアントウェルペン取引所では、手形や商品などの取引が行なわれていた。ここでは現金による決済以外にすでに商品のオプション取引に対する契約も扱っていた。このオプションは現在のデリバティブ取引と同様に、ヘッジとともに投機としても使われた。さらに債券を取引する第二市場も現れたのである。

 アントウェルペン取引所の銘板には「国籍と言語の如何を問わず、すべての商人に役立てるために」とあるそうで、交易の自由が保証され、イギリスやポルトガルなどヨーロッパ各国が商館や駐在員を配置し、資金調達などを行っていた。またアントウェルペンでは「アントウェルペン慣習法集成」という商法も制定され、この商法がオランダの東インド会社の設立に大きな影響を与えたと言われている。また、アントワープでは船舶の売買に加え海上保険といった取引も盛んに行われ、ヨーロッパ最大の商業・金融の中心地となっていった。

 アントウェルペン取引所の取引で一躍有名になった人物がいる。それが「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉でも有名なトーマス・グレシャムである。グレシャムはイギリス王室から海外負債管理の任務を託され、アントウェルペンに派遣された。アントウェルペン取引所において商才というか相場師の才能を発揮し、スペイン金の投機で成功し、イギリスの海外負債の大部分を清算したそうである。その結果、1559年にはエリザベス1世からナイトの称号を与えられた。

 アントウェルペン取引所の運営に目をつけたグレシャム卿は、ロンドンに戻ってから同様の取引所を設立し、それが王立取引所と改称され、イギリスにおける取引所の始まりになる。

 世界最初の取引所といわれている16世紀のアントウェルペン取引所では、すでにオプション取引や先渡し取引が行われていたが、現在の形式での先物取引などのデリバティブ取引の原型となっていたのは、江戸時代の大阪堂島で行われた米の先物取引であった。それがルーツとなり、現在、大阪取引所では日経平均先物や債券先物などのデリバティブ取引を主に取り扱っている。

 1874年に株式取引条例が制定された。1878年5月に渋沢栄一らが東京株式取引所を設立したが、1878年6月に五代友厚が発起人となって設立したのが大阪株式取引所であった。

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by nihonkokusai | 2015-11-29 17:18 | 金融の歴史 | Comments(0)

あさが作った生命保険会社

 17世紀にハレー彗星の周期を計算したイギリスの天文学者エドモンド・ハレーは、年齢ごとに生存している人、死亡した人の割合をまとめ、人間の寿命を統計化した「生命表」を作成した。

 18世紀イギリスのロンドンで、生命表を元にした死亡率に基づいて保険料を集める生命保険会社が設立され、これが今の生命保険会社の起源となっている。

 日本の生命保険会社の始まりは、福澤諭吉の著書「西洋旅案内」で欧州の近代的な保険制度が紹介されたのがきっかけとされる。この附録において、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(損害保険)の3種の災難請合について説明がある。

 福澤諭吉に関わりのある早矢仕有的という人物が、横浜に丸屋商社を創業した。丸屋商社は創業の翌年に東京日本橋に店を開設したが、これが現在の丸善となる。明治7年に「丸屋商社」は社員の福利厚生のために「死亡請合規則」というものを定めた。

 この「死亡請合規則」によると、従業員は在職中に一定の金額を積み立てし、万一死亡した場合には、相応の金額を残された家族に給付する。その考え方は後に阿部泰蔵(元丸善役員)によって設立された明治生命(現在の明治安田生命)に継承された(丸善のサイトを参照)。

 福澤諭吉門下でもあった阿部泰蔵によって、1881年にわが国最初の近代的生命保険会社である明治生命が設立された。その後、帝国生命(現在の朝日生命)、日本生命が設立されたのである。

 明治生命、帝国生命、日本生命の3社の業績が順調に伸びたことで、各地で多くの生命保険が設立された。そのひとつに浄土真宗の門徒を対象にした真宗生命があった。しかし、経営に失敗し、門徒総代格であった広岡家が再建を託されたのである。真宗生命は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称されたが、なかなか経営はうまくいかなかった。

 広岡浅子は経営不振を脱するため、この朝日生命と北海生命、護国生命と合併する構想を描き、その結果、1902年に誕生したのが大同生命である。社名は「小異を捨てて大同につく」という故事にのっとって選ばれたそうである。

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by nihonkokusai | 2015-11-20 09:37 | 金融の歴史 | Comments(0)

あさが作った銀行

 NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」のモデルとなっている広岡浅子は銀行設立にも携わった。

 明治政府は1868年に純正画一な貨幣を製造することを決定し、1869年の大隈重信の建議により、新貨幣は十進法によるものとし、その価名を「円」とすることを決定した。1871年には、最初の貨幣法である新貨幣条例が公布された。日本の貨幣の単位として円が正式に採用されたのである。これによって、近代的な貨幣制度の枠組みが整った。

 しかし、新貨幣の鋳造は進まず、明治政府は緊急の必要に応じるため「太政官札」「民部省札」などの、いわゆる不換紙幣を発行した。金銀貨による幣制の統一を目指していたものの、貨幣素材の不足や造幣能力の不十分さもあって、金銀貨の鋳造はなかなか進まなかった。その結果、金銀貨に代わる支払手段として不換紙幣の発行に依存せざるを得なかったのである。

 銀行の設立も明治政府にとっては大きな課題となる。民間からも銀行設立の願いが相次いだ。しかし、政府内ではこの銀行設立を巡って、米国のナショナルバンク制度をモデルにした地方分散型の発券銀行制度を主張した伊藤博文と、イングランド銀行をモデルにした中央銀行制度を主張した吉田清成の間で銀行論争が起こっていた。

 結果的には伊藤案が採用され、国立銀行条例が発布された。外国でバンクと呼ばれていた金融機関を日本語の「銀行」に翻訳したのは渋沢栄一とされるが、実際には渋沢が「金行」を提案したものの、三井の三野村利左衛門が「交換には銀も含む」として「銀行」となったとの説もある。国立銀行といっても、ナショナルバンクを日本語に直したものであり、これは国営ではない。あくまで国立銀行条例に基づき設立された銀行券を発券できる民間の銀行である。当初は銀行券の発行条件が厳しかったことなどから、設立されたのは第一国立銀行など4行だけとなった。

 その第一番目の第一国立銀行は、三井、小野両組が井上馨と渋沢栄一の勧めで、共同出資に踏み切って設立したとされる。本来は新貨幣為替ご用のお役目を受けていた三井が単独で銀行を設立しようとしていたが、ひとつの財閥が独走するのは望ましくないとして、渋沢栄一が三井、小野両組の共同出資に持っていったようである(小説「土佐堀川 広岡浅子の生涯」より一部引用)

 1876年に「国立銀行条例」は改正され、金貨との交換義務が廃止され、銀行券の発行限度も拡充された結果、全国的に銀行設立ブームが起こり、153行もの国立銀行が誕生した。また、民営銀行が設立される機運が高まり、特に浅子の実家の三井家は単独で私立の銀行を設立することになる。1876年に日本初の民間銀行である三井銀行が開業した。

 1882年に日本銀行が設立され、国立銀行が発行した紙幣は、1883年の国立銀行条例の改正により兌換銀行券である日本銀行券に置きかえられた。1899年には政府紙幣とともに通用停止となり、日本における流通紙幣は日銀券に統一された。これらを受けて国立銀行は普通銀行に転換した。

 実家の三井の動きに触発されて、広岡浅子も銀行の創立を目指し、渋沢栄一のアドバイスをもらって1888年に開店したのが加島銀行である。

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by nihonkokusai | 2015-11-14 11:43 | 金融の歴史 | Comments(0)

あさが来たに出てくる両替商とは

 朝の連続ドラマの「あさが来た」の「あさ」が嫁いだ先の両替屋(両替商)とは現在の銀行のような役割をしていた。この両替商がどのような過程で生まれ、どのような業務をしていたのであろうか。

 天下統一を果たした徳川家康は全国支配を確固なものにするため貨幣の統一に着手した。当初は金貨を主体に流通させようとしたが、西日本では中国との貿易などに際し、銀が決済手段として長らく利用されており、いわゆる「銀遣い」がすでに支配的となっていたため、幕府としても追認せざるをえなかった。東日本では金が決済手段として用いられていたことで「東の金遣い、西の銀遣い」とも呼ばれた。このため、大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期などにより相場が変化する変動相場となっていた。

 金貨や銀貨に35年ほど遅れて1636年(寛永13年)に「寛永通宝」と呼ばれる銅銭が発行された。銅銭は庶民の生活に主に使われる補助貨幣といった位置づけとなっており、銅銭の発行は後回しとなった。

 このように江戸時代の貨幣体系は三貨制と呼ばれ、金貨、銀貨、銭貨が基本通貨として機能し、特に江戸においては金銀銭貨という三貨すべてが価値基準および交換手段に用いられていた。三貨制は世界の金融の歴史においても独特の形式であったとされる。

 両替商はこの金銀銭貨の交換ニーズを背景として登場した。両替とは「両」つまり主に東日本で使われた計数貨幣である「金」を、西日本で使われていた秤量貨幣である「銀」、もしくは小額の計数貨幣である「銭」と替えるという言葉からきている。

 さらに大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期などにより相場が変化する変動相場となっていたことで、手数料を取って両替をするという仕事が生まれた。これが鴻池(こうのいけ)や三井、住友を代表とする両替商(両替屋)である。

 両替のためには基準になる相場を決めなければならず、両替屋の大手が集まりその日の経済動向を読みながら相場を立てていた。この相場は大きな資金を動かす政府である幕府にも報告された。

 天下の台所と呼ばれた大坂では、全国各地の諸産物が集まり売買されていた。取引の多くは通帳などに基づき信用で売買された後に、商品ごとに定められた期日に代金が支払われた。この決済手段に使われたのが、銀目手形と呼ばれた手形である。このように大坂の商人は、可能な限り現金銀の取り交わしを避け、現金銀を両替商に預け入れ、手形によって決済するといった慣習が出来上がる。

 両替商はこの銀目手形(決済手段として利用された手形)の引き受け・決済や資金融通を通じ、大坂で発展した。さらに両替商は業務を広げ、商人や大名、そして幕府などを取引相手に、預金の受け入れ、手形の発行や決済、加えて、貸し付けや為替取引など各種の金融業務を広く営むようになる。このように両替商は現在の銀行業務に近い金融機関としての役割を担っていた。特に手形の決済制度などは、同時期の欧州など諸外国の金融システムに比べても、かなり発達したものとなっていた。この信用制度の確立により、さらに大坂での商業活動が活発化したのである。

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by nihonkokusai | 2015-11-05 09:27 | 金融の歴史 | Comments(0)
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