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「日銀福井総裁の5年間を振り返る」


 1998年3月20日の日銀不祥事により当時の松下総裁と福井副総裁が辞任し、急遽、日商岩井の速水優氏が新日銀法施行後の最初の日銀総裁に選ばれた。新日銀法では日銀の独立性が強化され、その分透明性という面から、アカウンタビリティすなわち外部に対する説明責任が重視されるようになった。しかし、政治との関係は2000年8月におけるゼロ金利解除の際の議決延期請求権行使を招くなどギクシャクしたものとなってしまった。その後、デフレ懸念の強まりから速水日銀総裁は結局、2001年3月に量的緩和策を導入することとなった。速水総裁の5年間は、新日銀が本来の意味で独立を成し遂げたもののいきなり野に放たれたライオンの子のように数々の試練が待ち受けていた。

 このため2003年3月20日に就任した福井総裁の5年間は日銀の独立性、透明性を高め信頼に足りうる中央銀行としての信認を強化することが重要課題のひとつとなった。福井新総裁はいずれ金利の正常化を目指していたと思われるが、当初取った行動は市場をも驚かせた。2003年3月20日に就任した福井総裁は就任間もない3月25日に臨時の金融政策決定会合を開催したのである。

 この目的のひとつは行動を起こすことによって政府からの信認を得ようとしたものと思われた。また、福井総裁が就任した3月20日のイラク開戦で市場がやや動意を見せていたことも影響していたともみられる。ただし、臨時の会合を開催したにもかかわらず、その結果は現行の政策を維持することを全員一致で決定し、4月1日以後の郵政公社の発足に伴い当座預金残高目標を17~22兆円程度に引き上げることなどが決定されるなど大きな政策変換ではなかった。

 その後開催された通常の政策委員会(毎週、火曜日、木曜日)において、銀行保有株買取の枠を2兆円から3兆円に拡大し、これを政府は高く評価した。ただし、福井総裁は3兆円が限度と釘を刺していた。

 この決定会合・政策委員会やその後の福井総裁の会見を見てみると政府とのアコードも意識しながらも、これまでの政策から大きく逸脱した政策は取ることはなかった。インフレターゲット導入やETF、REITの購入に対する要求についてはやんわりながら否定した。速水前総裁は福井総裁に対して私より大人と表現したが、だめなものはだめと言った速水氏に対して福井氏は機動性、また政府への意思疎通といった行動力によって、そういった意見を封じこめたのである。

 その後、日銀の当座預金残高目標の引き上げは数度にわたって機動的に行われ、2004年1月には当座預金残高目標が30~35兆円程度にまで引き上げられた。ところがこの間、国債の買入について福井総裁となってからはまったく増額されていなかった。これはデフレ退治を前面に押し出しながら、いずれ来るであろう量的緩和解除にも備えていたと考えられる。

 つまり、当座預金残高目標の引き上げは実質的な効果を狙うよりもデフレ退治への日銀の意思を示すためのもの、つまりアナウンスメント効果を最大限利用したものとみられた。実際に当座預金残高を元に戻すことは技術的に短期間で行なえるものであり、広げてもすぐに手仕舞える施策であったのである。しかし国債買入の減額は国債需給にも影響を与え政府や財務省の反対も予想され容易には可能ではない。このあたり福井総裁のある意味強かさが見え隠れしていた部分でもあった。

 日経平均株価は結果的に2003年4月28日に7607円の最安値をつけその上昇に転じた。福井総裁の就任はまさに株価で言えば底にあるときであり、その後は米国や中国などの経済成長などを背景に、日本の景気も徐々に回復し始め、非常にタイムリーでもあった。

 量的緩和解除に向けて日銀は次第に動きを見せるようになる。金利の正常化路線を懐に暖めていた福井総裁もそれを次第に表に取り出し始めたのである。

 生鮮食料品を除く消費者物価指数の前年比上昇率が、基調的にゼロ以上になる、消費者物価指数が先行きもマイナスにならない、経済・物価情勢を総合的に判断する、という3つの条件を掲げ、2006年3月9日の金融政策決定会合ではこの条件が満たされたと判断した日銀は量的緩和政策を解除したのである。

 この日の会見で福井総裁は、次のように述べている。「生鮮食品を除く消費者物価指数の前年比はプラスに転じている。経済全体の需給ギャップが緩やかに改善を続けており、ユニット・レーバー・コストの動きを見ても、下押し圧力は基調として減少している。加えて、企業や家計の物価の先行き見通しも上振れてきている。このもとで、消費者物価指数の前年比は先行きプラス基調が定着していくとみている。こうしたことを踏まえて、消費者物価指数(全国、除く生鮮食品)の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで量的緩和政策を継続する」というかねてからの約束の条件は満たされたと判断した。」

 量的緩和政策の解除にともない、30-35兆円に積み上がった日銀の当座預金残高を6兆円程度の所要額に引き下げる必要があった。技術的には短期間で可能であったものの急激な減少は市場に影響を与えることになり、政策を量から金利に戻すことで機能不全に陥っていた短期金融市場の機能も回復させる必要があるため、やや時間をかけて行なわれた。当座預金残高の削減も順調に進み、6月に福井日銀総裁は「金融政策の判断、早めに小刻みにゆっくりと」との発言し、今度はゼロ金利解除に向けた姿勢を示したのである。

 しかし、そんな時期に福井総裁自身の村上ファンドへの出資が明らかとなるという問題が発生した。野党やマスコミなどを中心に辞任を求める声が強まったが、与党や金融市場参加者の一部などからは辞任の必要はないとの声もあり、結局、福井総裁は辞任せず「職責をまっとうする」こととなった。

 そして2006年7月14日の金融政策決定会合において、福井総裁は無担保コール翌時物金利の誘導目標をゼロに抑え込むゼロ金利政策を解除することを提案し、それは全員一致で可決された。これにより無担保コール翌時物金利の誘導目標は0.25%に引き上げられた。金利の引き上げは2000 年8月以来ぶりであった。

 2007年2月21日の日銀金融政策決定会合において、福井総裁は利上げを議長提案し8対1の賛成多数で追加利上げが決定され、無担保コール翌日物の誘導目標値は0.25%から0.5%に引き上げられ即日実施された。このとき反対したのは岩田副総裁であった。新日銀法による金融政策決定会合の仕組みが出来てから、総裁と副総裁のいわゆる執行部の賛否が割れたのは初めてのケースとなった。これは見方によっては合議制らしさが出たものといえるが、総裁票が否決されたことがあるイングランド銀行のMPCなどに較べて日銀の金融政策決定会合はFOMCに近くコンセンサスが重視されていたともみられていたことで、ある意味執行部の中の票割れは意外感もあった。

 その後、追加利上げを日銀は模索していたものとみられるが、2007年8月あたりから米国でサブプライム問題に端を発する金融市場の混乱から、欧米金融機関の巨額損失にゆる信用システムへの不安、さらに米経済の後退観測などから、日銀は2007年3月の金融政策決定会合から福井総裁としては最後の会合となった2008年3月の会合までは現状維持を続け、福井総裁とすれば金利の正常化に対し道半ばで退任せざるを得なかったのである。
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by nihonkokusai | 2008-04-15 10:53 | 日銀 | Comments(0)
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