牛さん熊さんブログ

bullbear.exblog.jp ブログトップ

牛熊ゼミナール金融の歴史第20回 江戸時代の三貨制度

 天下統一を果たした徳川家康は全国支配を確固なものにするため、963年に皇朝十二銭の発行が停止されて以来となる中央政府による貨幣を鋳造し、貨幣の統一に着手しました。最初に発行されたのが金貨と銀貨です。金貨は大判、小判、一分金、銀貨は丁銀と豆板銀です。

 金貨の単位は両、分、朱となり一両の四分の一が1分、一分の四分の一が1朱です。十両の重さのある大判という大型の金貨は、主に恩賞用・献上用に特別に作られたもので、通貨として流通しませんでした。大判といえば豊臣秀吉が作らせた天正大判が有名ですが、こちらは165グラムもある世界最大の金貨です。

 大判に対して文字通り通貨として作られたのが、小判と一分金です。時代劇に登場する小判には一両という刻印が刻まれていますが、本物の小判にも一両という刻印が打たれ、現在の1万円や100円と記されている貨幣と同様の「計数貨幣」として通用したのです。ただし、大判の「両」については重量単位となっています。

 流通する金貨が計数貨幣であったのに対し、銀貨は、匁(もんめ=3.75g)という重さの単位で価値を示す「秤量貨幣」であり、まったく性質の違う貨幣となっていました。江戸時代初期の銀貨である丁銀・豆板銀は秤で計って使っていたのです。

 徳川家康は貨幣の統一に際し、当初は金貨を主体に流通させようとしたのですが、西日本では中国との貿易などに際し銀が決済手段として長らく利用されており、いわゆる銀遣いがすでに支配的となっていたため、幕府としても追認せざるをえなかった面があります。この反面、東日本では金が決済手段として用いられていたことで「東の金遣い、西の銀遣い」とも呼ばれました。このため、大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期などにより相場が変化する変動相場となっていました。

 金貨や銀貨に35年ほど遅れて1636年(寛永13年)に「寛永通宝」と呼ばれる銅銭が発行されました。銅銭は庶民の生活に主に使われる補助貨幣といった位置づけとなっており、銅銭の発行は後回しとなったのです。

 このように江戸時代の貨幣体系は三貨制と呼ばれ、金貨、銀貨、銭貨が基本通貨として機能し、特に江戸においては金銀銭貨という三貨すべてが価値基準および交換手段に用いられていたのです。三貨制は世界の金融の歴史においても独特の形式であったと言えます。ただし、供給面での制約もあって、三貨が全国に普及するには時間もかかり、広く交換手段として利用されるようになったのは1660年代になってからです。


*** 「牛さん熊さんの本日の債券」メルマガ配信のお知らせ ***

 「牛さん熊さんの本日の債券」メルマガ、通称、牛熊メルマガでは毎営業日の朝と引け後に、その日の債券市場の予想と市場の動向を会話形式でわかりやすく解説しています。10年以上も続くコンテンツで、金融市場動向が、さっと読んでわかるとの評判をいただいております。昼にはコラムも1本配信しています。毎営業日3本届いて、価格は税込で月額1050円です。登録申込当月分の1か月は無料でお読み頂けます。ご登録はこちらからお願いいたします。
http://www.mag2.com/m/0001185491.html



[PR]
by nihonkokusai | 2011-10-25 18:09 | 金融の歴史 | Comments(0)
line

「債券ディーリングルーム」ブログ版


by nihonkokusai
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31