「高橋是清」
1929年7月に金輸出解禁の方針を掲げた浜口内閣が成立し、緊縮財政への転換と国民への倹約の呼びかけを行い、1930年1月に旧平価により金輸出を解禁しました。 しかし、旧平価に対し円がとくに弱かった時期に金本位制への復帰が発表されたため、物価と輸出が急速に低下し、大量の金が輸出解禁とともに海外に流出し、アメリカから始まった世界恐慌の影響も受けて国際収支も悪化し、日本の景気は急速に悪化することとなります。
1931年9月にイギリスが金本位制を離脱、同年12月の犬養内閣の成立にともなって高橋是清が蔵相に就任すると、直ちに金輸出が再禁止され、1932年1月には「銀行券の金貨兌換停止に関する勅令」の公布施行により、金兌換が停止され、日本は金本位体制から離脱し、日本銀行券の兌換も原則として停止されたのです。 1941年の日華事変の拡大とともに増大する戦費調達のため、兌換銀行券条例臨時特例法が制定され、翌年に新たに制定された日本銀行法により法律上も兌換義務がなくなりました。
高橋是清は首相や蔵相を歴任し、積極財政によって当時の日本の経済を立て直してきました。1931年再び81歳で蔵相となった高橋是清は日銀引受の国債を発行しました。それによって得た資金で政府が物資を買うことなどにより経済の状況が回復し、物価も少しずつ上昇しました。政府は日銀が引受けた国債を市中に売却することで余剰な資金を回収するという巧みな政策を実施してきました。
この積極財政の仕組みは、成功するかに見えたのですが、軍部予算の急膨張によってバランスを失いました。すでにインフレの兆候も出てきたこともあり、1936年の予算編成で高橋蔵相は公債漸減方針を強調しました。
しかし、健全財政を堅持しようとする大蔵省と軍部との対立が頂点に達したことにより、軍事費の膨張を抑制しようとした高橋是清は二・二六事件により凶弾に倒れた のです。
太平洋戦争突入直前の1940年の財政金融基本方策要綱により、日本銀行の通貨発行制限は撤廃されました。